The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.

カテゴリー: ことば (6ページ目 (11ページ中))

中国語で「ノルウェイの森」

昨日、北京の書店で村上春樹氏の「ノルウェイの森」の中国語版を買いました。

「ノルウェイの森」といえば言わずと知れた村上氏の代表作です。私も大学1年生の冬に購入して読みました。購入した場所が神戸の三宮にある書店だったことも覚えています(こういう無駄なことばかり記憶に残っているんですよね)。

村上作品は中国でも「大」が付くほどの人気で、特に「ノルウェイの森」(“挪威的森林”)はベストセラーです。中国(大陸)では林少華氏が翻訳したものが知られています。林氏の訳した村上作品はまるで中国の通俗小説を読んでいる気分にさせると言います。林氏は中国の古典文学に通じていて、その知識がなせる技なのかもしれません。

中国語で訳された文体を味わうことで、一度日本語で読んだことのある「ノルウェイの森」を2度楽しめる……というわけです。冒頭の部分、どのように書かれているか少しご紹介しましょう。

 三十七岁的我那时坐在波音747客机的座位上。庞大的机体穿过厚重的雨云,俯身向汉堡机场降落。十一月的冷雨将大地涂得一片阴沉,使得身披雨衣的地勤工、扁平扁平的候机楼上的旗,以及BMW广告板等一切的一切,看上去竞同佛兰德派抑郁画幅的背景一般。罢了罢了,又是德国,我想。
 飞机刚一着陆,禁烟显示牌倏然消失,天花板扬声器中低声流出背景音乐,那是一个管弦乐队自鸣得意地演奏的甲壳虫乐队的《挪威的森林》。那旋律一如往日地使我难以自已,不,比往日还要强烈地摇撼我的身心。
 为了不使脑袋胀裂,我弯下腰,双手捂脸,一动不动。

これを私なりに日本語に直訳すると……

 37歳の私はそのとき、ボーイング747の座席に座っていた。巨大な機体は厚く重い雨雲を突き抜け降下し、ハンブルク空港に着陸しようとした。11月の冷たい雨は大地をどんよりと染め、レインコートを着た地上スタッフたち、平たい空港ターミナルの上に掲げられた旗、そしてBMWの広告板など、一切合切をまるでフランドル派の憂鬱な絵画の背景のように見せた。やれやれ、またドイツだ、と僕は思った。
 飛行機が着陸し、禁煙を知らせるランプが消えると天井のスピーカーから小さくBGMが流れてきた。それはオーケストラが得意げに奏でるビートルズの『ノルウェイの森』だった。その旋律はいつものように私を苦しめた。いや、いつもより強烈に僕の心を揺り動かした。
 頭が張り裂けないように私は身をかがめ、両手で顔を覆い、じっと動かなかった。

さて、村上氏の日本語原文はどんなだったか。紹介します。

 僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
 飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。

この冒頭部分だけだと日本語も中国語もそんなに変わらないですね。村上作品に登場する主人公の1人称は「僕」が多いですが、中国語では“”としか書きようがないので「私」なのか「僕」なのか、あるいは「オレ」なのか訳出は難しいです。まあ「オレ」なら場合によっては“咱家”と訳せるかもしれませんが。

ちなみに台湾では違う中国語訳の「ノルウェイの森」が出版されています。私も学生の頃に台湾旅行した際、台湾版を購入しました。一番有名なのは頼明珠氏が訳したもので、こちらは林少華氏の訳に比べ、より日本語の「村上的文体」を再現できているのだそうです。

村上春樹に私が出会ってから、台湾が出会った頃まで
賴先生とは数年前に東方国際学者会議で初めてお会いしたのですが、オールド・フレンドとの再会のような親近感を覚えました。その後も連絡をしつづけており、たまに電話で村上文学の話や翻訳の話などをすると時の経つのを忘れて、つい数時間も会話がつづくほど、不思議な縁を感じております。

こちらは早稲田大学に「村上春樹ライブラリー」が開館するにあたり頼氏が寄せたエッセイ。頼氏が「村上的文体」をどう訳そうとしたのかが分かってとても興味深かったです。例えば「風の歌を聴け」の冒頭にあるひと言。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

頼氏は「完璧な絶望」という言葉の独特さを指摘しています。確かに、日本語の「完璧」は通常良いことにしか使わないので「完璧な絶望」は多少不自然に聞こえます。けれど、それが村上氏のこだわりなのでしょう。そこで次のように中国語に訳したと言います。

所謂完美的文章並不存在。就像完美的絕望不存在一樣噢。

頼氏は「完美」という言葉を使って日本語の「完璧」を表現したわけです。中国語の「完美」も「完璧である、非の打ち所がない」という、良い場合にしか使われない言葉。つまり「完美的絕望」を読んだ台湾人の読者は、日本人が「完璧な絶望」を読んだときと同じような「感覚」を味わうことができるわけです。

そして「完璧な絶望が存在しないようにね」の語尾の「ね」についても、頼氏は「」という漢字を語尾に付けました。これは中国語で「~だよ」といった語気を加える効果があります。頼氏は次のように話しています。

日本語の会話の語尾は相手の気持ちを尊重し、つねにお互いに緊密に呼応する。そんな日本語の心遣いを読者に感じさせたいと思って、場合によって語尾の「ね」を、訳すことにして「」として残した。

なるほど~。ここまで読むと気になるのが中国版の林少華氏はどう訳したか、です。林氏の訳した「風の歌を聴け」の冒頭部分は次のような表現でした。

不存在十全十美的文章,如同不存在彻头彻尾的绝望。

こちらは「完璧な文章」と「完璧な絶望」で「絶望」を訳し分けています。前者は“十全十美”(完全無欠の、完璧な)で、後者は“彻头彻尾”(徹頭徹尾、とことん、徹底的に)です。どちらも四字熟語を使うところが中国語っぽいですし、林氏らしいですね。

頼氏と違って同じ語を使っていないし「~しないようにね」の語尾も訳出はされていませんが、林氏のこの訳(=中国の通俗小説を彷彿とさせる訳)こそが、中国で村上作品のファンを生んだのかもしれません。残念ながら頼氏が訳した台湾版の「ノルウェイの森」は日本に置いてきてしまいましたが、林氏の中国語版が手に入ったということで、日本語オリジナルとはまた違う「ノルウェイの森」の世界観を楽しみたいと思います。

インディ・ジョーンズ

今日の夜、日本テレビの「金曜ロードショー」で「インディ・ジョーンズ」の映画を放送していました。2008年公開の「クリスタル・スカルの王国」です。

ふと映画タイトルが気になりました。というのが「インディ・ジョーンズ」ってタイトル、英語では”Indiana Jones”(インディアナ・ジョーンズ)って言います。中国語では何と言うかな?と考えたのですが、東京ディズニーシーに「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」ってアトラクションがありますよね。確かこのアトラクションの中国語表記では“印第安纳琼斯”(インディーアンナー・チオンスー)でした。だから英語の「インディアナ」にならっています。

なぜ日本語では「インディアナ」ではなく「インディ」なんだろうと調べてみたところ(今はインターネットで何でも分かるから便利ですね)シリーズ第1作目の邦題にヒントがあるそうです。というのが、第1作目は「レイダース/失われたアーク」という邦題で「インディアナ」「インディ」といった名前は全く入っていなかったそうです。

ただ、この邦題が「なんかよく分からない」「見たいという気分にならない」などと不評を買い、公開当初はあまりヒットしなかったんだそうです。内容はおもしろい映画ですから、その後、口コミで徐々に有名になり、配給側も「2作目からはもうちょっとマシな名前にしよう」と考えて付けたのが「インディアナ・ジョーンズ」だったとか。

ちょうど同じ時期、映画「ランボー」についても原題が”First Blood”でイマイチだったところに「ランボー」という邦題を付けて大当たりしたのも影響したのかもしれません。映画の中では「インディ」と呼ばれていますから、日本人向けには「インディアナ」より「インディ」にしてしまったほうが分かりやすいという考えもあったのかもしれませんね。

非ネイティブ同士の会話

今日、仕事で韓国の方とお会いしました。以前にも会ったことのある方で、基本的に中国語を使ってやり取りをしています。

前にも書いたことがありますが、非ネイティブ同士が中国語で会話するのって何だか「伝わらなさ」を感じるんですよね、隔靴掻痒と言うか。でも日本人と韓国人が母語でもない中国語を使って会話をするんですから当たり前です。

途中、日本アニメの話になりました。

中国で大ヒットしている新海誠監督の「すずめの戸締まり」。中国や韓国の方にそのまま伝えても理解してもらえません。それぞれの言語で違うタイトル名が付いているからです。中国では“铃芽之旅”(鈴芽の旅)と言います。しかし韓国はまた違うタイトル名なので、いくら中国語を使って会話しているとは言え、これを韓国の方に伝えても「?」になっちゃいます。

実は韓国語でのタイトル名は知っていました。“스즈메의 문단속”(スジュメエムンタンソク)、直訳すると「スジュメの戸締まり」です。「スズメ」が「スジュメ」になってしまうのは、韓国語に「ズ」という音がないのでしようがありません。“문단속”(ムンタンソク)は漢字で書くと「門團束」。これは「戸締まり」という意味なのだそうです。

その後「スラムダンク」の話になりました。「スラムダンク」は中国で“灌篮高手”と言います。しかし韓国の方には「スラムダンク」と、そのまま言った方が通じます。韓国でも“슬램덩크”(スレムドンク)というタイトルだからですね。

このほか、人名に言及するときも少し面倒なことが起きます。例えば「岸田総理大臣」のことを中国語では「アンティエン」と言います。中国語で日本人の名前に言及する際は、名前の漢字を中国語で発音するというルールになっているからです。なので中国語で「岸田」という名前は「キシダ」ではなく「アンティエン」と言います。

一方、韓国語のルールでは日本人の名前は日本語発音そのまま読むということになっています。佐藤は「サト」だし、山田は「ヤマダ」です。このため韓国の人と会話で「岸田総理大臣」について言及する場合は“기시다”(キシダ)と言った方が分かりやすいのです。

とまあ、日本人と韓国人が中国語で会話するとこういうことが起きます。

中国語非ネイティブの方と中国語で会話すると、普段は意識しないことまで考えながら話をするので疲れてしまいますね。ま、同じ非ネイティブである自分を高度十万八千メートルの上空に棚上げして言うんですけど(^^;)。

英語のほうが非ネイティブ同士で会話する機会が多いと思うのですが、同じようなことは起きないんでしょうか。今度、英語を使う人たちに聞いてみたいと思います。

方言を話す気概

中国は広大な面積を有しているため、各地に方言が存在し、その差がとても大きいことで知られています。例えば中国語の代表選手「ニーハオ」(“你好”)。これは北京語を基礎とする標準語の発音であり、各地に行くと「ニーハオ」は「ニーハオ」でなくなります。

  • 上海語「ノンホー」
  • 広東語「ネイホウ」
  • 台湾語「リーホウ」

カタカナで書いただけなので全くそのとおりの発音ではありませんが「ニーハオ」と音が全く違うことが分かると思います。その差は方言というより別言語と言った方が良いかもしれません。だって北京と上海の距離は1200キロほどありますが、これはヨーロッパに例えると、ドイツとイタリアの距離と同じです。だったらドイツ語とイタリア語の違いくらいあっても不思議ではありません。

私は中国語の標準語(北京語)しか知りません。そのため各地の人が標準語を話してくれれば問題ありませんが、方言を話し出した途端に何を言っているか分からなくなります。だから上海の人が上海語で話しかけてきたら、全く分からないと思います。

今回、四川省に旅行に行ってきたわけですが、四川省にも方言(西南官話)があります。中国の内陸部に位置するので、さぞ標準語と違うのかと思いきや……四川の方言については何となーく分かる気がするんですよね。いや、方言を話しているんですが、ところどころ聞き取れる(ような)気がするんです。なんかこう、気の抜けた標準語というか……(笑)中国語の分かる方に説明するなら、四声がめちゃくちゃな中国語といった感じでしょうか(失礼だっちゅーの)。

四川省の人たちもそう(=私たちが聞き取っていると)感じているのか、容赦なく四川方言で話しかけてくる人が多かったような気がします。例えば成都を案内してくれたタクシードライバーのおっちゃんはずいぶん訛っていましたが、半分くらいは分かる気がするのです。まあ、逆に言うと半分は何を言っているか分からないんですけど(笑)。標準語を聞き取るのに比べると苦労します。けれど訛りを隠すことなく話しかけられると、何だか同じ輪の中に入れた感じがするんですよね。

人によっては標準語と方言をうまーく切り替える人がいます。さっきまでチャキチャキの方言を話していたのに、話しかけた途端にきれいな標準語を話し出すんですよね。当然、私としては標準語を話してくれた方が楽ですが、こういう場面に出くわすたびにうまく言えないのですが、なんとなく「よそよそしいもの」を感じるんです。いや、もちろん方言を話されたところで私には理解できないのです。けれど、おそらく地元の人同士が方言で会話している中に入っていけないことに、疎外感みたいなものを抱いてしまっているのかもしれません。勝手なものです。

私が留学していた十数年前は、もっと方言を話す人がいたように感じます。最近は地方に行っても方言を話せない人が増えたのか、そういう「疎外感」は少なくなりました。おそらく標準語を話す人が増えたからかなあ。けど、それはそれで寂しいんですよね。言葉はひとつの文化ですし、聞き取れないなりに相手が何を言っているのか一生懸命聞き取ろうと苦労したのは良い思い出です。

みんなが標準語を話してくれるようになれば旅には困らないと思います。けど、こうした文化は残ってほしいですよね。それこそ、私たち旅行者がその土地に入っていっているわけだから、少しくらい方言をかじって地元の人に話しかけるくらいの気概があって良いと思います。

追記)

ちなみに、なぜ四川省の方言が標準語に近いのかという考察ですが、一説には「屠蜀」を挙げる研究があるそうです。「屠蜀」とは、現代風に言えば「四川大虐殺」とも訳せますが、明の時代に残酷な殺戮を好んだ張献忠なる人物が無差別殺戮を行い、四川の人口を著しく減少させたとされる出来事です。これによって(今の四川方言と違う言葉を話していたであろう)古代四川人が壊滅し、よその地域から移民が増えたからというのが理由だそう。とても興味深いです。

常青树

ふと、中国人の同僚から“常青树”(「常青樹」)は日本語で何と言うのですか、と聞かれました。そのまま訳せば「常緑樹」です。一年中葉っぱを茂らせている樹木のことですね。

けれど、その意味ではないと言うのです。例えば、とある芸能人が一過性ではなく何年も何年も人気であり続けるような場合、その人を指すとのこと。例として挙げてくれたのがSMAPのキムタクこと木村拓哉さんでした。なるほど、確かにキムタクは若い頃のデビューに始まり、今でもドラマに出演するなど根強い人気です。それを言ったら中居くんだってバラエティー番組で今も活躍しています。すると同僚は「中居くんも、そういう意味では“常青树”です」と言います。

なるほど、何年経っても活躍している芸能人のことを、葉の落ちない常緑樹に見立てて“常青树”と言うわけですね。芸能人だけでなく政治家など幅広い分野で使えるそうです。

日本語ではうーん、「息が長い」でしょうか。そう言われると、長く活躍する人を取り立てて表現する日本語はないかもしれません。一方、短命な芸能人のことは「一発屋」。日本語と中国語でそれぞれ正反対の立場を指す言葉ならあるというのは興味深いですね。

«過去の 投稿 新しい 投稿 »

© 2025 BOBOYORU.NET

Theme by Anders Noren上へ ↑