The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.

投稿者: ぼぼよる (118ページ目 (265ページ中))

故事成語

今年の“两会*1が閉会した。閉会後、新しく首相に就任した李強氏の記者会見が行われた。

新しく就任した李強首相、歩き方といい、話し方といい、何だか「近所のおっちゃん感」がある。にこにこしていて、エリートだった前の李克強首相に比べると、たたき上げといった雰囲気だ。それだけに中央での政治経験のない李氏の手腕は未知数。「ゼロコロナ」政策で停滞した経済の立て直しが喫緊の課題となる中、どういう経済政策が展開されるか、乞うご期待……というところか。

ちなみに、中国のお偉い方々はよく会見で故事成語やことわざといった、難しい中国語を使う。会見を聞いていて“中国有一句话说……”(中国のことわざにいわく……)などという発言が始まるや「キタキタ〜!」と心臓の鼓動が早くなる。今回就任した李強首相は歴代の首相に比べるとそこまで多用していなかった。それでも私のような純ジャパが聞くと「??」となる中国語表現が出てくる。

像我们这一代人,小时候听得最多的故事是大禹治水、愚公移山、精卫填海、夸父逐日等等,都很励志,讲的都是不怕困难、不畏艰险、勇于斗争、自强不息的精神,中国人从来没有被任何困难所压倒!

我々のような世代の者は、幼い頃によく「大禹治水」「愚公移山」「精衛填海」「夸父逐日」といった物語を聞いた。どれも自らを奮い立たせてくれるもので、困難を恐れず、危険を恐れず、勇敢に戦い、たゆまず励む精神を教えてくれた。中国人はこれまでどんな困難にも圧倒されたことはない!

「大禹治水」「愚公移山」「精衛填海」「夸父逐日」なんて羅列されても「ひぃぃ~~」だ。こういう中国語をその場で即座に訳さねばならない通訳の人たちって本当にすごい。私だったらお手上げだろう。うちいくつかは日本語でもそのまま通用するが、あまり詳しくない人に訳すなら「黄河の治水を成し遂げた大禹」、「山さえも動かした愚公」、「こつこつ石を運んで海を埋めた精衛」、「太陽を追った夸父」くらい言わなければ、理解できないだろう。

意味を知っているか知らないかで、故事成語は伝わり方が全く違う。「知っている」人に対しては漢字4文字だけでバックストーリーはもちろん、そのストーリーが持つ教訓さえも一瞬で伝えることができる。逆に言うと「知らない」人には全く伝わらない。

ちなみに会見には英語の逐次通訳も付いていた。どう訳していたのだろうか。

People of my generation are familiar with stories of heroes in Chinese legends like Dayu who tamed the flood, Yugong who moved the mountains, Jingwei who carried stones to fill up the ocean, and Kuafu who chased after the sun. These inspiring stories are testament to the spirit of resilience tenacity and the perseverance that has defined the Chinese nation. We, the Chinese people have never been crushed by any difficulty.

私の世代の人たちは、洪水を鎮めた大禹、山を動かした愚公、海を満たすために石を運んだ精衛、太陽を追いかけた夸父など、中国の伝説に登場する英雄の話をよく知っている。これらの感動的な物語は、中華民族の特徴であるレジリエンス、粘り強さ、忍耐の精神の証である。我々中国人はいかなる困難にも打ちのめされたことはない。

うーむ、さすが。日本人ならまだしも、欧米の中国語通訳者にこんな訳が即座にできるだろうか*2。他山の石だと思って、私ももっと真面目に勉強しよう。

References
*1中国で重要政策を決める全国人民代表大会と中国人民政治協商会議の2つを合わせた略称。
*2とは言え、大体こういう中国の指導者たちの記者会見は想定問答が事前にあることがほとんど。おそらく通訳用の原稿も事前に用意されているんだと思う。

渋谷横丁

日曜日だけど今日も仕事。帰宅後、せっかくの週末なので外食した。向かったのは北京に2年前にオープンした「渋谷横丁」。その名の通り、日本料理店を集めた施設だ。

これも過去3年のコロナ禍で日本に行けない中国人たちの「思い」を満たすためにできた施設なのだろう。建物全体が「渋谷横丁」というわけではなく、3階のみが入居フロア。お好み焼き居酒屋、ちょっとおしゃれなバー、座敷で天ぷらがいただける割烹料理屋など、日本らしい飲食店がぎっしり詰まっていて、このうち「海花」という沖縄料理店に入ることにした。

いざ入店すると、恰幅の良い店主と思わしき男性が「いらっしゃい!何名様で?」と日本語で話しかけてくれた。ああ、私も日本人だと認識してくれたんだなあ……ちょっぴりうれしい*1

ゴーヤチャンプルー、島らっきょみたいな定番から、チキン南蛮、スパムの入ったポテトサラダなども注文。個人的には海ぶどうをいただきながらオリオンビールをクイッといただきたかったが、どちらもないようだ。やはり特殊な銘柄のビールや生ものは難しいかあ。

ちなみに先客に10数人ほどの日本人のグループがいたんだけど、これが結構賑やかな人たちだった。よく日本人は「中国人は声が大きい」なんて言うけれど、これじゃあ日本人も全然負けていないなあ。一方、同じ店内にいた他の中国人客はみんな静かだったので、どう思っただろう。賑やかなのは誠に結構だけど、たまにこちらの会話の声が聞こえなくなるくらいだったのはちょっとねえ。

ちなみに、中国人は「渋谷」という漢字をよく“涉谷”と書き間違える。

「渋」という漢字は、中国語では本来“”(繁体字では“”)と書かなければならない。ただ「渋」と“”は見た目が結構違うため、その結果、何となく似ている“”(日本漢字だと「渉」)と書いてしまうのだ。これは「渋」の漢字と違うし、発音も違う。

中国って漢字の本場でありながら、結構こういう適当なことが多い。一方、日本はワタナベさんという名字ひとつ取っても「渡辺」、「渡邊」、「渡邉」など漢字が50種類以上あって、書き分けているのにねえ。ただ、これも戸籍を登録する際に役所の人または当事者が漢字を書き間違えたという説があるくらいだから、実は日本も適当なのかもしれない。

References
*1見た目から中国人と思われることが多いので。

2011年3月11日

東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から今日で12年。干支でいえば、丸々1周した計算になる。

12年前のあの日に何が起きたかはメディアが朝からずっと取り上げてくれているので、私は自分自身がどう過ごしていたかを振り返ってみたいと思う。

2011年3月11日、私は今と同じように中国・北京にいた。確か、金曜日だった。授業が午前中で終わる日で、地震発生の瞬間、私は留学生宿舎で過ごしていた。当時、私は毎週土曜日に日本語学校で日本語を教えるお手伝いをしていたため、確かその教材を作っていたのを覚えている。

教材作りをする手を止め、ツイッターを眺めているとNHKの公式アカウントが「緊急地震速報です」とつぶやいた*1。それが午後2時46分、北京時間午後1時46分だった。揺れが大きいことはすぐに分かった。フォロワーたちのツイートが続いたからだ。「やばい」「大きい」……けれど、私の記憶では、あのころ日本では地震が相次いでいたこともあり、大したことだとは思わなかった。そして私は昼食後だったこともあり、ウトウトして昼寝してしまった。

大変なことだと気付いたのは目を覚ましてから。ツイッターのタイムラインが大騒ぎしていたのだ。ふと「もしや」と思い、部屋のテレビを付けてみた。すると中国国営の中国中央テレビがNHKの放送波をそのまま流していた。それが、まさに津波が田畑をのみ込んでいくヘリコプターから撮影された映像だった。

中国中央テレビの放送画面(2011年3月11日撮影)

私は恐ろしくなってルームメートのカナダ人を呼んだ。彼はテレビを見ると、絶句して「ツナミ?」とだけ発したのを覚えている。そう、英語でも津波は「ツナミ」なのだ。

東京にいる弟や友人の安否はツイッターで知ることができた。そして西日本在住とはいえ、両親のことが心配になって電話をした。電話に出た母親が「日本は大変なことになっているよ」と話したのが印象に残っている。

もう1人、連絡した人がいる。ランゲージパートナーだった中国人の学生だ。留学していた大学の日本語学科に通う女子学生で、日本語と中国語を教え合う仲だった。ちょうど地震の1週間前に日本留学をスタートさせたばかりだった。日本に行く前、彼女は「地震が起きたら怖いなあ」と話していたが、まさか到着早々こんな事態に巻き込まれるとは。メールをすると「私は大丈夫よ、ありがとう」とすぐに返事が来た。彼女の留学先は東京だったが、大阪にいる友人を訪ねて避難するらしかった。理由は福島第一原子力発電所の事故の影響を恐れて、だ。

もうひとつよく覚えているのは、有志の日本人留学生で募金活動をしたことだ。日本だと募金箱に数十円を入れて……程度かも知れないが、意外と100元札*2をポイッと入れてくれる人もいて、ありがたいなあと思った。

有志の日本人留学生で行った募金活動(2011年3月24日撮影)

実は原発事故をめぐっては中国でもひと騒動あった。塩の買い占め騒動が起きたのだ。確かヨウ素入りの塩は放射性物質の沈着を防ぐ効果があるとか、そんなウワサが出回り、スーパーからは塩が消え、在庫のある店舗には客が殺到する騒ぎになった。

しかし、そんな騒動も当時を日本で過ごした人たちの苦労を思えば何てことない。ツイッターを見ているだけでも、その苦労は伝わってきた。例えば計画停電。証明が間引きされたり、夜でも電気が付かなかったり。私は北京にいたので何一つ困ることはなかった。当時の日本の合言葉は「がんばろう日本、がんばろう東北」。このフレーズを聞く度に、私は母国が大変なことになっているのに、その苦労を分かち合えていないような、後ろめたい思いになった。

いざ、思い出してみると、12年間開けられることのなかった引き出しの記憶がたくさんよみがえってくる。私は私で外の世界から日本をどう見つめたか、せめてその思いを忘れないようにしよう。そして今日の午後2時46分には私も黙祷をしようと思う。

References
*1当時はもうツイッターがあって、東日本大震災の発生時には安否確認や情報伝達で大きな役割を果たした。
*2当時のレートだと1600円くらいだった気がする。

黄砂襲来

今日は午後から出社。インフルエンザからの復帰後、初の外出だ。

会社に出てから同僚たちにお礼と謝罪を。だって私が休んでいた間の「仕事のしわ寄せ」が行ったんだもの。私がインフルエンザだと診断される前日に「きっとインフルエンザだ」と見事予言していたドライバーさんにも「あなたの言っていたことが正しかったよ」と伝えると、ケラケラ笑っていた。それよりあなたは大丈夫だった?と聞くと、自分の胸をドシンと叩いて見せてくれた。50過ぎだというのにたくましいなあ。見習わねば。

しかし今日は窓の外を見ると、病み上がりの身が「再度悪化」するんじゃないかと言わんばかりの天気。これぞ北京の風物詩、黄砂だ。まだ手前が見えるからましなほうだろう。私が留学していた頃には、家に帰って髪を洗うと茶色の水が流れたこともあったなあ。

この時期は窓を開けていると気持ちが良いけど、これじゃあとても開けていられない。家の中が砂だらけになること請け合いだ。何事も一筋縄には行かないね。

酒を飲まずに4日目

インフルエンザへの罹患が判明した日から4日目。1滴も酒を飲んでいない。

今回、服用している薬の中にはタミフルも含まれている。病院で処方される際、医師から「タミフルの服用後、10代の若い人を中心にまれに異常行動を起こすことが確認されています。それを踏まえた上で処方を希望するかはあなたの判断です。どうしますか」なんて聞かれ方をした。まあ、私はもう10代ではないし……ということで迷わず処方してもらったけど、ああいう聞かれた方をすると、ちょっと身構えてしまう。

タミフルでなくても薬を服用している期間中に飲酒はよくないし、そもそも罹患して1日目、2日目はしんどくて「酒を飲みたい気分」にもならなかった。それが回復してくると、やはり酒が恋しくなる。晩酌が大好きな私にとって、酒がない夕食というのは何かこう、福神漬けのないカレーというか、ネギのない蕎麦というか……どこか寂しい気がしてしまう。

もうひとつ、意外な発見があった。酒を飲まない夜は「短い」のだ。以前は酒を飲まない夜は長いと思っていた。酔わないと時間を有効に使うことが出来るからだ。けれど今回は食事後に眠くなってしまう。おそらく服用している薬の1つが「眠くなる」副作用があるからかもしれない。しかし食事後に歯を磨いていると、もうこのまま眠ってしまいたいほどウトウトしてくるのだ。これなら酒を飲んで妻とゲラゲラ笑っていたときのほうが夜が長かったように思う。とにかく「味気ない夜」だ。

とりあえず、処方された薬は明日が最後。仕事も午後からは出勤する予定なので、生活もやっと元通りだ。仕事から帰って「プシュッ」のビールを早く飲みたいなあ。

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