The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.

タグ: 旅行 (1ページ目 (3ページ中))

福建省の友人を訪ねて

中学時代の同級生で、私が中国語を学び始めるきっかけになった友人、鍾小霞を訪ねて福建省に来ました。中学生のとき以来なので、実に20年ぶりの再会です。

私と中国語の話
私は中学生の頃に中国語を学び始めました。岡山生まれ岡山育ちですが、中学時代は父親の仕事の関係で東京に住んでいました。国際都市・東京だけあって通っていた学校には韓国国籍の子、日本とフィリピンのハーフの子、黒人の子など、海外にルーツを持つ同級生がたくさんいました。そんな中に中国人の子がいました。彼女は福建省出身で、鍾小霞という名前でした。入学当初の彼女は日本語が全く話せず、誰ともコミュニケーションが取れませんでした。授業は聴き取れないので肘を突いて窓の外をボーッと眺めているだけ。休み時間になって...

空港には小霞と小霞のお父さん、そして親戚の子が迎えに来てくれました。

いろんな意味で彼女は全く変わっていませんでした(^^)。どんな風になっているんだろう、お淑やかで洗練された女性になっているのかしら……と思ったものの、いやはや中学時代のままです。ま、私だって中学時代から何も変わっていないんですから、人のことをアレコレ言えません。感動的な再会の瞬間を記録に残そうとムービーを撮りながら空港の到着ロビーに出ると、小霞はゲラゲラ笑って「撮らないでよ」と、カメラを壊さんばかりの勢いで奪い取ろうとします。そう言えば、中学時代もカメラを向けると怒られたなあ。

小霞の地元は福建省福州市福清市です。市の中に市があるのは日本人にとっては不思議に見えるかもしれません。福州市と福清市はどちらも「市」と付いていますが、違うものです。言ってみれば、福州市が「大きい市」(=地級市)で、福清市が「小さい市」(県級市)。日本で例えると大阪府の中に大阪市があるのと似ています。ただ福清市の人は自分を「福州人」ではなく「福清市」と呼ぶことが多いらしく、何かと違いが意識されるようです。日本でいうと横浜の人が「神奈川出身」ではなく「横浜出身」と言うのと同じ感じかもしれませんね。

福清市は地方都市という表現がぴったりの街です。高層ビルがいくつも建っているような街ではありませんが、通り沿いには小さな飲食店が何店舗も並んでいて、とても賑やかでした。

そして印象深かったのは夜になるとできる夜市です。夕方になると屋台が並び始め、片側2車線ある道路のうち、外側の1車線をつぶしてしまいます。加えて夜市で買い食いをする人たちが道にせり出してくるので車の渋滞ができていました。けれど車の運転手を含め、誰も気にしていないように見えるのは、ここで夜市が長年親しまれているからなのかもしれません。

夜市でドリアンを売る屋台

串焼きやマーラータン、果物を使ってその場で作る絞りたてジュースなど、実にいろんな店が並んでいました。このガヤガヤした感じ、台湾で行った夜市を思い出します(^^)。福建省は台湾の対岸ですから、文化が似ているのかもしれません。

北京の場合、王府井などに並ぶ「観光屋台」を除いて屋台は基本的にみられなくなりました。私が留学していた頃はあったんですけどね。大学近くでは夜になると屋台が並び、燕京ビールを飲みながら羊肉の串焼きをよく食べました。友人たちとよく行きましたし、1人でもよく行きましたねえ。その後、衛生面が良くないとか首都の景観を悪くするとか、いろいろ言われて姿を消しました。

福清市の夜市は何だか古き良き中国を見たようで懐かしい気分になりました。ただ小霞曰く「若い人しか行かない」そうで、本人はあまり屋台では食べないんだそうです。

小霞のご両親は福清市にビルをお持ちでした。このビル、小霞のご両親が日本で頑張って稼いだお金で建てたんですよね。上層階は自宅として使い、その他のフロアは貸し出しているとのこと。自宅部分にはご両親に加えて親戚たちが住んでいて、小霞たちが一時帰国したときに寝泊まりできるようたくさんの部屋がありました。全室にトイレと洗面所が備わった豪華仕様です。ビルの1階にはお菓子や飲み物を売る商店が入っていて、ここの店員さんとは顔見知りのようでした。

福建省滞在2日目には小霞の親戚の方が車を運転し、福州市内に連れて行ってくれました。運転してくれたのは女性の方で、最初は「小霞の友人かしら」と思ったのですが、聞くと小霞のいとこのお連れ合いの方とのこと。日本人からすると少し遠縁に感じますが、親戚づきあいが濃い中国では珍しいことではありません。

福清市から福州市の中心部までは車で1時間強だったでしょうか。福州市は福建省の省都*1なだけあって、とても発展していました。街の至る所にガジュマルの木があるのが印象的でした。ガジュマルの木は中国語で“榕树”と言いますが、福州市は“榕城”という別名もあるんだそうです。

福州市内の一角にあるガジュマルの木

福州市では福建料理の店で昼食をいただきました。私は恥ずかしながら福建料理と聞いてもパッと思い浮かばないのですが、中国では八大料理に数えられているんだそうです。

私が知る数少ない福建料理のひとつ、焼きビーフンです。福建省発祥の料理で、ビーフンという言葉も福建省の方言に由来します。こちらのビーフンには海鮮がたくさん入っていて(海に面する福建省は海鮮を使った料理が多いのも特徴です)プリプリのエビや歯ごたえのあるイカなど、海鮮好きな私としては大変食べ応えがありました。

こちらの料理は“荔枝肉”、日本語に直訳すると「ライチ肉」です。料理名だけ見ると「ライチを使った料理かしら」と思ってしまいますが、実際には一切使われていないそうです。メインの素材の豚肉を形状も風味もライチに似せた料理……といった感じでしょうか。食べてみると確かに甘酸っぱくてライチを彷彿とさせます。日本人には「福建風酢豚」と説明したほうが分かりやすいかもしれません。ライチの生産地・福州では清の時代から伝わる代表的な料理です。

ほかにもいくつか料理を注文しましたが、福建料理、特に福州は甘味が特徴のようで、どれも甘い味付けでした。写真奥のスープは“酸辣汤”(サンラータン)ですが、これさえも甘い!北京でいただくのとずいぶん違う味がしました。

ちなみにこのとき食べたものではありませんが、私が今回の福建省滞在中にいただいた料理の中で一番おいしいと思ったのは“海鲜焖面”(海鮮燜麺)です。写真を撮らなかったのが悔やまれます。下の写真はWikipediaから引用したものです。

Haixian menmian.jpg
Hhaithait – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

海鮮の具材が入った麺料理で、福建省の中でも小霞の地元・福清市で食べられる料理です。なにがおいしいって、このスープがたまりません。牡蠣を始めとする海鮮の出汁がよくきいていて、とろとろ煮込まれたような濃厚さがあります。これを食べて思い出すのが、長崎ちゃんぽん。明らかに同じDNAが入っているのを感じます。

で、いざ調べてみると果たして長崎ちゃんぽんのルーツと言われているそうです。いやあ、中国で食べた麺料理では一番感動したかもしれません。私は蘭州牛肉麺好きですが、もしかしたらそれを上回っちゃうかも。それほど自分の好みにドンピシャな味でした。

福建省の滞在中、とにかく食事面ではずいぶん歓待してもらいました。特に滞在2日目の夜にはホテルのレストランの1室を貸し切り、小霞の親戚たち(厳密には旦那さん側の親戚だそうですが)が一堂に会して宴会を開いてくれました。総勢20人近くが集まり、テーブルには置ききれないほどの料理が並びました。

中国は伝統的に大家族主義の国で、親戚づきあいが盛んです。親戚関係を表す呼称も豊富で、例えば「いとこ」も中国語では父方か母方か、自分より年上か年下か、男か女かによって呼び方が全て違います。だもんで、いざ紹介されてもパッと分からないのが正直なところ(^^;)。

あと、もうひとつ私が困ったのは方言です。小霞の地元では「福清話」という方言が話されていて、親戚たちが集まるとたちまち会話が方言になります。私が使っているのは共通語(北京語)で、小霞たちが使う方言との間には外国語くらいの違いがあります。なので方言で話されてしまうと私はチンプンカンプン。もちろん皆さんは共通語も話すので、私と乾杯をするときは共通語で“同学干杯”(同級生君、乾杯)なんて言ってくれました。ただ、小霞の子どもたちの世代になると方言は使っていなかったかな。ただ聞き取りはできるようで、親戚のおじさんおばさんが方言で話しかけたら、それに共通語で返す――みたいな感じでした。

References
*1省の政府が所在する場所のことで、日本でいうところの「県庁所在地」です。

私と中国語の話

私は中学生の頃に中国語を学び始めました。

岡山生まれ岡山育ちですが、中学時代は父親の仕事の関係で東京に住んでいました。国際都市・東京だけあって通っていた学校には韓国国籍の子、日本とフィリピンのハーフの子、黒人の子など、海外にルーツを持つ同級生がたくさんいました。

そんな中に中国人の子がいました。彼女は福建省出身で、鍾小霞という名前でした。入学当初の彼女は日本語が全く話せず、誰ともコミュニケーションが取れませんでした。授業は聴き取れないので肘を突いて窓の外をボーッと眺めているだけ。休み時間になっても会話する相手がいないので孤独に1人座っていた姿を覚えています。

このままではいけないということで、ある日、学校が通訳を手配しました。中年の中国人女性で、ホームルームの際には担任の先生が話す日本語をひたすら中国語に通訳していました。で、そのときの小霞が「うんうん」と頷きながら中国語を聞く姿が印象的でした。だって小霞はそれまで何も分からない「無」の世界にいたのに、通訳によって意思疎通できるようになったのです。当たり前ですが、私はそのことに衝撃を覚えました。

小霞はその通訳の方と日本語を学び始めました。当時、私たちの教室の隣には空き教室があり、そこで机を合わせて1対1で学んでいた姿を思い出します。小霞はみるみる日本語を覚え、半年も経つと簡単な内容なら日本語でやり取りできるようになりました。

そんな小霞の姿に刺激を受け、私は中国語を学んでみたいと思うようになりました。小遣いを貯め、1冊の学習本と1冊の辞書を買いました。それが2002年11月のことです。これで中国語が話せるようになるかしら――なんてワクワクしながら表紙をめくった気持ちは一生忘れないと思います。

それからというもの、小霞に対して中国語が通じるかどうか実践するのが私の日課となりました。ただ、肝心な小霞は私に対して中国語をあまり使おうとしてくれませんでした。日本語を学んでいるんだから日本語を使いたい!とか、確かそんな理由だったと思います。

小霞の日本語の上達スピードに比べて私の進歩は「後塵を拝する」といった感じでしたが、中国語を学ぶのは本当に楽しかったです。中国語を使って働けたらどんなに素敵だろう、将来は中国語の通訳者になってかつての小霞のように意思疎通に困っている人たちを助けてあげたいと思うようになったのもこの頃でした。

小霞には親友とも呼べる日本人の友人もできました。私たち3人は本当に仲が良かったです。放課後には遅くまでおしゃべりをしたし、週末にはよく一緒に遊びに出かけました。

けれど、数か月後に卒業を控えた中学3年生の12月、小霞は突然帰国しなければならなくなりました。ビザに問題が生じたのが原因で、それが判明した1週間後には出国するというくらい急な話でした。私はてっきり一緒に卒業できる、なんなら卒業後も仲良く交流し続けられると思っていたので、大変うろたえました。とても寂しくて、不意に涙が出てしまうほどでした。本当に寂しかったです。

帰国の前日、仲の良かった友人同士で小霞のお気に入りだった街・渋谷へ遊びに行きました。

小霞と行った最後の渋谷(2004年12月撮影)

渋谷公園通りにあるディズニーストアに行って小霞の中国の友人へお土産を買い、ケンタッキーフライドチキンで夕食をとりました。フライドチキンを食べながら「明日、何時に家を出るの?」と聞くと、小霞は「午前6時」と教えてくれました。そこで、その場にいた友人同士で顔を見合わせ、みんなで小霞の出発を見送ろうということで満場一致しました。

翌朝、私たちはまだ日も昇らないうちに小霞の自宅に向かいました。

見送りに行った朝(2004年12月撮影)

小霞は聞いていた午前6時になっても出てきません。15分経っても、やはり出てきません。小霞の父親は自宅近くでマッサージ店を経営していたので、そちらに見に行ってみました。店舗の入口はガラス戸になっていて店内が見えるのですが、無人で真っ暗でした。ケータイで店の電話番号にかけると、店内の固定電話がひたすら鳴るのが見えました。電話を取る人はいません。

結局、小霞には会えませんでした。おそらくですが、午前6時より早く出発したのでしょう。理由は分かりません。帰国の理由が理由だったので、本当は人知れずこっそり出国したかったのかもしれません。いずれにせよ、私と小霞はそれきりです。そして小霞は私の中で思い出の人となりました。

私は中学校を卒業し、地元の岡山に戻りました。高校に入学した後も私は中国語を学び続けました。高校1年生のときには初めて中国(上海)を訪れました。岡山の地元企業が企画した日中の高校生交流プロジェクトに参加し、上海の高校を訪れ現地の学生たちと交流したのです。私にとって、初めて小霞以外に知り合った中国の友人でした。また、高校2年生のときには中国語スピーチコンテストに参加しました。スピーチのテーマは小霞との思い出。手前味噌ですが最優秀賞をいただきました。この賞は私だけのものではなく、小霞と一緒に受賞したのだと今でも思っています。このときにもらった賞金を使い、高校3年生になる直前の春休みには母、祖母と中国旅行に行きました。人生で2回目の中国、その目的地は将来自分が働くことになる北京でした。

爾来、私は中国語への思いをより強くし、中国語の研究ができる大学に進学しました。そして在学中に1年間、北京に留学しました。留学中も私は小霞のことを忘れたことは一度たりともありません。なんなら「福建省に行ったら会えるだろうか」と考えたこともあります。けれど実現しませんでした。なんせ当時の私には何の手がかりもなかったのです。

大学卒業後、私は今の仕事に就職しました。初めての勤務地は香川県・高松市。仕事でたまーに中国語を使うこともあり、それがとても嬉しかったです。

香川県での勤務も5年が経った2018年のある日、ふとスマートフォンの通知音が鳴りました。それも連続して何度も、です。見てみると鳴っていたのはFacebookのメッセンジャーで、「一体誰がこんなにたくさん送ってくるんだろう」と確認してみると、何と小霞からのメッセージでした。

私は思いがけない小霞との(オンラインではありますが)再会に驚き、嬉しく、また「本当にあの小霞なのか」という信じられない思いでいっぱいでした。私は中国語で“哇!真的是你吗!?”(ワア!本当に君なの!?)とメッセージを送りました。これに対し、小霞は“你中文还是那么好”(中国語が相変わらず上手ね)と返してくれました。20年ぶりの小霞とのやり取りです。

聞くと小霞は福建省にはおらず、なんと出稼ぎで南太平洋の島国「トンガ」に住んでいるとのこと。3人の子のママで、旦那さんとトンガで商店を営んでいるんだそうです。小霞の出身地、福建省は確かに昔から海外に出稼ぎに出る人が多い地域です。小霞が幼い頃に日本に住んでいたのも、両親が出稼ぎに来ていたからでした。しかし、またトンガに出稼ぎとは──儲けられるのか?なんて思ってしまいますが、すでに6年になる*1と教えてくれました。

私に連絡をくれたのは、小霞がある日、同じく出稼ぎに来ている中国の友人と中学時代の話になったのがきっかけでした。小霞が「当時の友人と連絡を取りたいけど連絡先が分からない」と言うと、友人は「日本人はよくFacebookを使っているから、名前を検索したら見つかるんじゃないか」とアドバイスをくれたそうです。小霞はすぐさまFacebookをインストールして名前を検索したところ、私のアカウントを見つけた――そういう経緯でした。

久しぶりに連絡をとった小霞はすでに日本語を忘れていました。けれどやり取りは全く問題ありません――なぜなら私が中国語を話せるようになったからです。小霞が日本を発つ日の朝に見送りに行ったのに会えなかったこと、その後も私は中国語を学び続けて北京に留学したこと、今は中国と関係のある仕事に就いていること、とにかく話したいことが山ほどありました。こうして私たちは再び、連絡を取り合えるようになったのです。

その年の夏、私は東京に異動しました。新しい職場は中国に関する部署で、いよいよ中国語を使って仕事をするようになりました。そして2022年、私は北京に赴任します。小霞は相変わらずトンガに住んでいましたが、1年に1度は中国に帰国していました。中国で働く機会を得た今こそ、小霞に会えるチャンスではないか――ただ会えると思えば思うほど会えないもので、小霞の帰国の時期と私の仕事のタイミングが全く合いませんでした。何度か会えそうなチャンスはありましたが、結局会えないままズルズルと今に至ります。2025年、北京生活も3年目に入ると「このまま小霞に会えず帰国するのかな」と思うことが増えてきました。私が帰国してしまうと、わざわざ日本から小霞の一時帰国に合わせて中国に行くのはいよいよ難しくなると思います。

今、私は福建省に向かう飛行機に乗っています。小霞が7月上旬に一時帰国することになり、運良く私も夏休みをもらえて再会を果たせることになったのです。オンラインでやり取りをするようになって7年──互いの近況は知らせ合う仲になっていましたが、実際に再会するのは実に20年ぶりです。なんたって最後に小霞の顔を見たのは一緒に行ったあの渋谷のケンタッキーフライドチキンですから。

今の小霞は日本語を忘れ、中国語しか話せなくなっています。そういう意味では、中学校に入学した当初の小霞に戻ったと言えるかもしれません。けれど当時と違うのは、私が中国語を話せる点です。周りの人たちと何のやり取りもできず、寂しそうな顔をしていた小霞。あんなことにはりもうなりません。あなたをきっかけに学び始めた中国語は、これくらい話せるようになったんだよ──いつか小霞の前で披露したいと思ってきました。中学時代のあんなことこんなこと、卒業してからのあんなことこんなこと。中国語でいろんな思い出を語り合いたいと思います。

References
*12018年当時で「6年になる」ですから、今では小霞がトンガに行って13年が経つことになります。

中国東北の旅 満州国の記憶を訪ねて②

中国東北の旅、2日目。今日は引き続き長春市内を散策します。

まず向かったのは「新民大街」という大通りです。ここは満州国時代には「順天大街」と呼ばれ、政府機関の建ち並ぶ官公街として整備されました。まずは大通りの南端にタクシーを乗りつけ、北に向かって歩くことにしました。

続きを読む

中国東北の旅 満州国の記憶を訪ねて①

中国では今日からメーデーに合わせた連休が始まり、東北部の吉林省長春に旅行に行きました。ここはかつて満州国の首都・新京が設置された場所で、今も当時の建築物がたくさん残っています。

満州国は「国」と名乗っているものの、実際には日本の傀儡国家です。日本が中国東北部を占領した際、国際連盟や諸外国からの批判をかわすために建国されました。当時ありったけの最先端技術を投入して街作りが進められた一方、日本の敗戦により満州国はわずか13年で消滅します。その後、日本に引き揚げようとした人たちがソ連軍の攻撃で虐殺され、親とはぐれて日本に帰れなかった「中国残留孤児」を生み出した悲劇の地でもあります。

日本と中国の歴史を語る上で、中国東北部――旧満州の歴史を抜きにはできません。そんなこともあって私は中国にいる間、必ず一度は行きたいと思っていました。この連休中の航空券を調べたところ、よその観光地に向かう便は軒並みビックリする価格に値上がりしていた一方、長春便はそうでもなかったので、これ幸いと「満州国の記憶を訪ねる旅」を企画したのです。

続きを読む

香港旅行3日目

香港旅行3日目、昼過ぎには北京に戻る飛行機に乗るので香港で過ごせるのは実質半日です。

宿泊した尖沙咀(チムサーチョイ)のホテルから歩いて数分のところにブルース・リーのブロンズ像があるようなので、チェックアウトをしてから向かってみました。

ビクトリアハーバー沿いにあることは知っていたのですが来たのは初めてです。人間の身長より少し大きいくらいの像が立っていて、何人かの人が写真撮影をしていたので、場所はすぐ分かりました。私の父がそうですけど、香港というとブルース・リーを連想する人は多いですね。私なんかは世代的に香港というとジャッキー・チェンの印象が強いですが。

ホテルをチェックアウトした後でスーツケースをゴロゴロ転がしながら来たので、大汗をかきました。まだ4月ですが、香港はすでに初夏の陽気です。北京と違って湿気があるので、体感温度は高めかもしれません。

その後、朝食をいただきに油麻地(ヤウマーテイ)に向かいました。目指すのはネイザンロード沿いにある“紅茶冰室”という茶餐庁*1です。行列ができるほど有名だというので、Googleマップを頼りに向かってみました。すると……あれ?確かに地図には“紅茶冰室”とあるのに、目の前にある店は“彌敦冰室”と書いてあります。行列ができているようにも見えないし、もしや店が変わっちゃったのかしら。しばしガックリして途方に暮れるも、まあ、こちらの店もモーニングセットがあるようだったので入店することにしました。

ガラス戸の入口にはメニューが大量に貼られていて、中に入るまで店内の様子が分かりませんでした。けれど結構な客が入っていたので、少なくともハズレの店ではなさそうです。メニューを見ると、とにかくものすごい品数。地元の広東料理だけでなく、サンドイッチやトーストといった洋風の料理も用意されていました。なるほど、これが「茶餐庁」なわけですね。

やはり地元っぽいものを食べようと、私は麺とトースト・スクランブルエッグのセットを注文しました。和洋折衷ならぬ“華”洋折衷といったところでしょうか。イギリスに統治されていた香港らしい組み合わせです。

私の注文した麺は“榨菜肉絲麵”、ザーサイと細切りにした肉が上にのったものです。麺は3香港ドル(約50円)追加して出前一丁に変更しました。出前一丁といえば日本発祥の即席麺ですが、香港では本当によく食べられています。スープは濃すぎず、けれど味がしっかりしみていておいしかったです。そして何と言ってもトーストがサクサク。こんなにおいしいトーストは久しぶりに食べました。少なくとも北京では食べたことがありません。

妻が注文したのはこちら“雪菜肉絲麵”、高菜と肉の細切りがのった麺です。妻は麺を出前一丁にしなかったので米粉*2です。

当初目指していた店とは違う茶餐庁に入りましたが、結果的に正解でした。おいしいのに値段はリーズナブル。店員さんも気持ちがいい人ばかりで、娘のことを何度も“乖孩子”(いい子)と言ってくれました(^^)。お店に入る前は「期待しない方がいい」などと値踏みしてしまって、ごめんなさい。

こちらの店、“彌敦冰室”と言う店名の通り、ネイザンロード(“彌敦道”)に面しています。相変わらずネイザンロードは人通りが多くて賑やかでしたが、看板が皆無になったのはやはり寂しいですね。あれこそ香港の象徴だったのに。貴重な観光資源だったと思うんですけどねえ。老朽化が原因なら、新たに作ることはできないんでしょうか。

もちろん、私のような外部の人間が古き良き香港を懐かしみ、変化を拒もうとするのはお門違いでしょう。香港に住む現地の人たちにこそ、香港の将来を決める権利があります。けれど香港に魅せられ、香港を訪れる外国人には私と同じような気持ちを持っている人が結構いるのではないかと思うのです。変わるべきところは変わっていくべきだと思いますが、これからも是非「香港らしさ」を留めてくれればと願ってやみません。

References
*1茶餐庁というのは香港を始め、マカオや中国南部の広東省で見られる喫茶と軽食を兼ねた飲食店です。学生が朝食や夜食をとったり、ビジネスマンが昼食をとったり、あるいは近所の人たちがお茶をしたり。もっとも「香港らしい食文化」と言われています。
*2米から作った麺のこと。
«過去の 投稿

© 2025 BOBOYORU.NET

Theme by Anders Noren上へ ↑