The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.

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河南宝泉旅遊区

今日はいよいよ妻のおじいさんが住んでいた河南省の新郷に向かいます。

とは言え、おじいさんが新郷のどこで何をしていたのか皆目見当もつきません。そこであまり難しいことは考えず、どこか観光名所に行って「新郷に行った」とすることにしました。事前に調べると、新郷には「宝泉」という景勝地があるようよし。太行山脈の南端部分にあたり、さながら中国版グランドキャニオンのような景色が広がっているんだそう。それはいいじゃないのーということで「河南宝泉旅遊区」に行くことにしました。

鄭州から宝泉まではバスを利用します。鄭州のバスターミナルを午前8時に出発するチケットを予約。余裕を持ってホテルを出たつもりですが、意外と時間ギリギリになりました。

いざ改札口でスマートフォンの予約画面を提示したところ、女性スタッフから紙のチケットに交換してくるよう言われ、チケット売り場に並び直し。で、いざ紙のチケットを提示したら、今度は身分証を提示しなさいとのこと。そこでパスポートを見せると「身分証ですよ、身分証」と言います。中国では国民1人に1枚、身分証が発行されています。日本のマイナンバーカードみたいなもので、さまざまな手続きの際に使え、高速鉄道の改札口も身分証をタッチすれば通過できます。でも身分証を持っているのは中国人の話。外国人には発行されないので、私たちの身分証はあくまでパスポートです。

だのに「身分証はないのか」とか何とか言ってくるので、私も少しイライラしてきちゃって「外国人が中国の身分証を持っているわけがないだろう」「バスの発車まで時間が無い」と少し声を荒げてしまいました。すると何とか私は通過できましたが、そのスタッフ、今度は妻のパスポートを持ってどこかへ行こうとします。で、また思わず「どこに持って行くのか」と叫んでしまいました。するとスタッフは「本当にこれで通していいのか、警察に確認する」と言います。結局「問題ない」ということですぐに戻ってきましたが……いやはや、当たり前でしょ。

それにしてもスタッフが偉そうだったこと。まるで「改札を通すも通さないも私の一存」と言わんばかりの態度でした。この国には「自分に与えられた権利」を行使するのが好きだという人が一定数います。なぜなんでしょう。「権力=我が意のまま=偉い」みたいな発想になってしまうのかな。

鄭州から1時間少しで宝泉に着きました。宝泉は観光地として整備されていて、谷底の川のほとりを散策できる「大峡谷」エリアと、崖上部から景色を一望できる「崖天下」エリアの2つに分かれています。私たちは「大峡谷」エリアから入ることにしました。

ここ宝泉は立派な峡谷で、切り立った崖が印象的です。ここを流れている川は「峪河」と言うそうです。ところどころ堰堤があったので、厳密にはダム湖みたいな感じかもしれません。

とても暑かったですが、水辺にいると涼しく感じます。川を横切る橋を渡ると中央付近で風が吹いて気持ちいいです。崖と崖の間で風の通り道になっているんでしょうか。

夏休みだけあって人はそこそこいました。けれど全国に名の知れた観光地に比べればマシです。例えば四川省の九寨溝はこんなもんじゃないでしょうね。芋洗い状態だったと思います。その点、ここ宝泉は穴場スポット。中国で観光地の人出がこの程度なら御の字だと思います。

崖沿いに“L型洞穴电梯”(L字型洞穴エレベーター)なるものがありました。これに乗ると谷底から崖の上まで一気に移動できます。

L字型という名前の通り、洞窟に入るとまず400メートルほど水平な道があって、突き当たりにエレベーターがありました。エレベーター自体は普通のエレベーターで、あっという間に崖の上に着きました。乗っていると気付かなかったのですが、実は336メートルの距離を上っていたようです。中国で運行距離が最も長い観光エレベーターなんだとか。

崖の上まで来るとこんな感じ。まさに絶景――中国版グランドキャニオンです。

標高は平均で1150メートルあるとのこと。高いことは分かるのですが、建物といった人工物が見えないので感覚が麻痺しちゃって、あまり高くないように感じてしまいます。

やって来たのは今日宿泊する「黄岩根民宿」です。景勝地の中には何軒か宿泊施設があり、こちらはそのうちのひとつです。北京にいる段階からWeChatでやり取りをし、宿付近は商店がないから必要なものは買ってきたほうがいいとか、宝泉から帰りのアクセスはどんな交通手段があるとか、いろんなことを教えてくれたので大変助かりました。

中国で民宿と名のつく宿に泊まるのは少し勇気がいりそうですが、こちらは清潔で快適でした。畳の小上がりもあって、くつろげるスペースも十分。

部屋で過ごしていると民宿のスタッフさんが果物の盛り合わせを持ってきてくれました。それだけでなく室内の冷蔵庫に入っている飲み物が全部無料だったり、無料の顔パックなどアメニティーが充実していたり、さりげないサービスがうれしいですね。

部屋にはベランダもあって、景色はこんな感じ。いやあ、絶景です。1台のテーブルと2脚のイスが置いてあり、景色を眺めながらくつろげるようになっていました。実はこちらの景色が見える部屋は少し「お高い」のです。しかしこれなら支払った甲斐があるというものです。

ベランダからは帰路に就く観光客の姿がたくさん見えました。そして人はどんどん少なくなり、最終的に誰一人いなくなりました。静かな景勝地をベランダからまったり眺めていると、まるでこの絶景を独り占めしているような贅沢な気分になります。

夕食は民宿の食堂でいただきました。これがどれも素朴なんだけど、どれも今までに食べたことのない独特の味わいでとてもおいしかったです。

右奥の料理はおそらくシソの葉を揚げた料理。天ぷらみたいなサクサクした食感で、おつまみにピッタリです。左手前の料理は“猎肉炒山笋”と書いてあったので、おそらくイノシシやシカのような獣肉を使っているんだと思います。全然臭みはなく、タケノコと一緒に炒めてあって山の滋味を味わいました。あと左奥の料理は“槐花炒土鸡蛋”。“槐花”というのはエンジュの花で、中国北方では初夏に食べる伝統食材なんだそうです。卵と一緒に炒めていて、とても香り豊かでした。

夜は娘を寝かせつけた後、ベランダでビールをいただきました。残念ながら真っ暗で峡谷は全く見えませんでしたが、星空はきれいでした。地元の岡山に住んでいた頃はもっと星空に親しんでいたように思いますが、その後、岡山を離れてからというもの、こうして星をまじまじと見たのは久しぶりな感じ。東京や北京じゃ明るい星しか見えませんもんね。

ベランダで妻とゆっくりしていると、午後11時を過ぎた頃に別の宿泊客たちが民宿の中庭にやって来ました。で、着衣のままプールに入ってキャッキャッ大騒ぎ。ちょっとびっくりするくらいうるさかったです。家族連れなのかな?家族連れと言っても、子どもは小学生や中学生じゃないですよ。成人しているかな?というくらいで、親に至っては50、60代と思わしき年代。皆さん、大声をあげながらプールでバシャバシャはしゃいでいるのです。

ちょっとぉ……せっかく良い雰囲気だったのが台無しです。そもそもこんな時間に騒いだら他の宿泊客に迷惑でしょう。ベランダにいる私たちにも気付いているようでしたが、全然お構いなしでした。民宿のスタッフも聞こえたんじゃないかしら。この騒がしさは民宿側が注意すべきです。これについては私、クレーム入れさせていただきます。

追記)

民宿側に「うるさい宿泊がいて、民宿が注意すべきだった」とクレームを入れました。すると先方からは“深夜噪音问题,会加强夜间巡查,遇到类似情况第一时间温和提醒,守护安静氛围”(深夜の騒音問題については夜間の巡回をさらに強化し、同様の事態があればすぐに穏やかにお声がけいたします。お客様の静かなご滞在環境を守るために努めてまいります)という回答がありました。ほんまかいな(^^;)。けど雰囲気はいい民宿だったので、ぜひ今後の改善に期待したいと思います。

河南省の旅 1日目

家族で河南省に2泊3日の旅行に行きました。

中国人の同僚に河南省へ行くと話すと、大体「何しに行くの」と返されます。河南省ってそれほど名所が思い浮かばない場所なのかしらん(^^;)。いやいや、いにしえの都だった洛陽とか、少林寺だってあるじゃないの。とは言え、いずれも今回の目的地ではありません。

河南省に行くことになったきっかけは妻のおじいさんのアルバムです。おじいさんは先の大戦中、中国で過ごした時期があるようで、当時の写真がアルバムに残っていました。1枚1枚に丁寧な文字で説明が書いてあり、ここに「新郷」という地名が書いてあるのを見つけたのです。

「北支新郷陸軍病院運動會」の文字

写真の下に「北支新郷陸軍病院運動會」と書いてあります。北支は支那の北部で、つまり中国北部。続けて書いてある「新郷」という地名を妻が調べたところ、河南省にあることが分かったのです。

ただ妻のおじいさんはすでに亡くなっていて、それ以上は何も分かりません。私も中国の検索サイトを使って新郷について調べたものの、日本と縁のありそうなものは見つけられませんでした。分かっているのは「おじいさんは河南省の新郷という場所にいたことがある」、それだけです。

妻はずっと河南省が気になっていたようでした。なので私から「だったら新郷に行ってみよう。手がかりが無くたって、おじいさんがいた場所の空気を吸うだけいいじゃないの」と提案したのです。だって日本にいたら新郷だけのためにわざわざ中国に行こうとしないでしょう。中国で生活する今だからできる「おじいさんの軌跡をたどる旅」です。

北京からは高速鉄道を利用しました。新郷まで直通で行くこともできましたが、初日は河南省の省都・鄭州で途中下車。2時間20分ほどの乗車時間でした。

ホテルの窓から見た景色。少しお値段高めの部屋を選んだので、広々として快適でした。

ちなみに娘が生まれてホテルの選び方はずいぶん変わりました。単身だった頃は「どうせ寝るだけ」という考えのもと、狭くても安ければ構わないという考えでした。しかし子どもが生まれると小さなホテルは限界。日本、特に都心の狭いビジネスホテルだと家族3人分の荷物とベビーカーを置いたら自分たちが動けるスペースさえもなくなります。娘が歩き回るようになった今は尚更です。今回宿泊したホテルはとても広かったので、娘も気に入ったのか「キャッキャッ」と走り回っていました。

午後からは鄭州海洋館という水族館に行きました。

なぜ河南省まで行って初日から水族館なのかと思われるかもしれません。でも鄭州海洋館、結構立派なんです。それに1歳の子連れだと、変にマイナーな歴史的建造物に行くより、水族館のほうがよっぽど楽しめます。特に暑い夏なら尚更です。

午後4時から入館できるイブニングチケットがお得だったので、こちらを購入しました。

鄭州海洋館はビルの中に作られた水族館で、1階から8階までフロアごとにさまざまなテーマが設定されていました。通常の水族館に比べるとフロア面積は若干狭く感じましたが、シロイルカみたいな大型の水棲動物も。巨大な水槽が複数回を突き抜けるように設置されていました。

少なくとも北京の水族館より大分立派でした。しかし北京の水族館が「しょぼい」のは何故なんでしょうね。私は当初、北京が内陸都市で海から遠いのが理由だと思っていました。日本でも水族館は基本的に海沿いに作られます。内陸の北京に水族館が作られた結果、展示生物の調達コストや維持コストが高くなり、規模や多様性で沿海都市の水族館に劣るのかなあと。けれどよくよく考えれば鄭州こそ内陸都市だし、北京よりもはるかに海から離れています。

北京の観光資源は故宮博物院や万里の長城、それに頤和園といった歴史文化遺産が圧倒的に強いので、都市戦略として大型水族館への投資は優先度が低かったのかもしれません。

信仰の山「石竹山」

小霞の実家から外を眺めると、あまり遠くないところに山が見えます。急峻な山で、山頂付近に東屋があります。とても印象的だったので、何と言う山か聞くと「石竹山」だと教えてくれました。山上には仏教や道教の寺院があり、信仰の対象として古くから親しまれてきたそうです。山の周辺は景勝地にも指定されていて、小霞の親戚が連れて行ってくれることになりました。

出発の直前、小霞のお母さんが「小霞は山に登れませんからね」と言いました。あ、そうそう、すっかり忘れていましたが、小霞はキリスト教徒なんでした。中学時代、小霞に連れられ四谷にある教会のミサに連れて行かれたなあ。別にお参りしなければ山に登るくらいいいんじゃないかと思ってしまいましたが、信心深いんですねえ。

石竹山は山の中腹までロープウェイで登ることができます。

小霞は約束通り麓まで。山上までは親戚の方と登ることにしました。石竹山は標高およそ500メートルだそうですが、ロープウェイに乗ったらあっという間に登ることができました。

山上に着き、いざ振り返ると絶景が広がっていました。

山のすぐ脇には「石竹湖」という大きな湖があります。近くにある「東張ダム」(“东张水库”)によってできたダム湖なんだそうです。ロープウェイに乗る前に電動バイクで湖のほとりを少し走りましたが、とても気持ちよかったです。

山上には「万福寺」という、とても有名な仏教の寺院があります。ただ暑くて暑くて……そこまでたどり着ける自信がなかったので、ロープウェイの降り場を出てすぐのところにある道教の寺院「石竹山道院」のほうに行ってみることにしました。

石竹山道院は847年に創建されました。日本では平安時代の頃ですね。

寺院に到着すると、まず目に入ったのは“坚持我国宗教中国化方向”(わが国の宗教を中国化していく方針を堅持しよう)というスローガン。宗教の教えを“中国化”させていきましょうという意味です。もっと分かりやすく言うと、中国共産党の方針と相反する宗教は認めませんということです。

こちらの寺院で有名なのが“祈梦洞”。日本の漢字で書くと「祈夢洞」で、その名の通り、夢を見て祈るための洞窟です。ここでは見た夢の吉凶を判断する祈夢信仰が盛んなんだそうです。この門をくぐると階段があって、洞窟の中を登っていくような構造になっていました。本物の洞窟なのかしらと岩肌を触ると、モルタル造形でした。

いざ階段を上りきると妖艶な色の光に包まれた空間が広がっていました。ここが「祈夢洞」です。周りを見渡すと、確かにゴザを敷いて寝ている人がたくさんいらっしゃいました。

夜をまたいで過ごすこともできるようで、洞内の看板には「布団は午後6時に貸し出し、翌日の午前5時に回収」なんて説明が書いてありました。シャワー室や洗濯所まであり、もしかしたら数日にわたって滞在する人もいるのかもしれませんね。

男女が一緒の寝床もあれば、男女別々の寝床もありました。こちらは男性専用の寝床です。

お参りにあたっては、とにかく小霞の親戚の方が詳しく教えてくれました。曰く「名前と住所、願い事は詳しければ詳しいほど良い」んだそう。30センチはありそうな線香をあげ、ひざまずいて何度も合掌します。私が「祈るときは日本語でもいい?それとも中国語?」と聞くと、親戚の方は「うーん、中国の神様だから中国語のほうが良いかもしれない」と笑っていました。道教って日本にいるとあまり親しむことがないので、とても新鮮な経験でした。

山を下りて、いざ小霞に「どこにいるの」と連絡したら「とっくに帰宅した」との返事。このマイペースな感じは中学時代のままです(^^;)。

小霞の実家近くの飲食店で昼食を取り、ほどなくお別れの時間となりました。小霞は結構あっさりしていて「車、呼んどいたから。あと5分で着く。乗れば空港まで連れて行ってくれるよ」とのこと。どうやら配車アプリ「滴滴」で車を呼んでくれたようです。20年ぶりの再会は、あと5分で別れを告げなければならなくなりました。かと言って、改めて伝える言葉も見つからず。小霞が「どう?楽しかった?」と聞くので、私も「そりゃあもう。おかげさまで」と返しました。

車が到着すると小霞は「じゃ!空港に着いたら連絡して」とそそくさに立ち去ろうとします。思わず「せめて握手くらい良いじゃないの」と言うと、そういうキャラじゃないとか何とかぶつぶつ言いながらも握手をしてくれました。こうして私が中国語を学び始めるきっかけになった友人──鍾小霞との20年越しの再会劇は幕を閉じました。

とは言え、空港に向かう道中、自分もずいぶんあっさりしていることに気付きました。友人と20年ぶりの再会を果たし、いつ次に会えるか全く分からないというのに。けれど寂しいとか悲しいとか、そういう気持ちが全くないのです。まあ、今はインターネットがあります。だってWeChatで繋がっていれば、世界中どこにいたって「お隣同士」なんです。

こういう通信技術の進歩をネガティブに捉える人もいます。対面の人間関係や社会の繋がりが弱まるとか、便利さや効率化の裏で人間らしい生活や社会の健全性が失われているとか。通信技術の進歩にそういう面があることは否定しません。一方、こうした技術のおかげで中国にいても日本の家族や友人といつでも連絡が取れます。それより何より技術のおかげで私と小霞は再び連絡を取り合うことができるようになったのです。

小霞と再会し、中国語で会話するという目標が叶いました。次の目標――今度は東京での再会です。そのときまでしっかり中国語を鍛え続けないといけないですね。

福建省の友人を訪ねて

中学時代の同級生で、私が中国語を学び始めるきっかけになった友人、鍾小霞を訪ねて福建省に来ました。中学生のとき以来なので、実に20年ぶりの再会です。

私と中国語の話
私は中学生の頃に中国語を学び始めました。岡山生まれ岡山育ちですが、中学時代は父親の仕事の関係で東京に住んでいました。国際都市・東京だけあって通っていた学校には韓国国籍の子、日本とフィリピンのハーフの子、黒人の子など、海外にルーツを持つ同級生がたくさんいました。そんな中に中国人の子がいました。彼女は福建省出身で、鍾小霞という名前でした。入学当初の彼女は日本語が全く話せず、誰ともコミュニケーションが取れませんでした。授業は聴き取れないので肘を突いて窓の外をボーッと眺めているだけ。休み時間になって...

空港には小霞と小霞のお父さん、そして親戚の子が迎えに来てくれました。

いろんな意味で彼女は全く変わっていませんでした(^^)。どんな風になっているんだろう、お淑やかで洗練された女性になっているのかしら……と思ったものの、いやはや中学時代のままです。ま、私だって中学時代から何も変わっていないんですから、人のことをアレコレ言えません。感動的な再会の瞬間を記録に残そうとムービーを撮りながら空港の到着ロビーに出ると、小霞はゲラゲラ笑って「撮らないでよ」と、カメラを壊さんばかりの勢いで奪い取ろうとします。そう言えば、中学時代もカメラを向けると怒られたなあ。

小霞の地元は福建省福州市福清市です。市の中に市があるのは日本人にとっては不思議に見えるかもしれません。福州市と福清市はどちらも「市」と付いていますが、違うものです。言ってみれば、福州市が「大きい市」(=地級市)で、福清市が「小さい市」(県級市)。日本で例えると大阪府の中に大阪市があるのと似ています。ただ福清市の人は自分を「福州人」ではなく「福清市」と呼ぶことが多いらしく、何かと違いが意識されるようです。日本でいうと横浜の人が「神奈川出身」ではなく「横浜出身」と言うのと同じ感じかもしれませんね。

福清市は地方都市という表現がぴったりの街です。高層ビルがいくつも建っているような街ではありませんが、通り沿いには小さな飲食店が何店舗も並んでいて、とても賑やかでした。

そして印象深かったのは夜になるとできる夜市です。夕方になると屋台が並び始め、片側2車線ある道路のうち、外側の1車線をつぶしてしまいます。加えて夜市で買い食いをする人たちが道にせり出してくるので車の渋滞ができていました。けれど車の運転手を含め、誰も気にしていないように見えるのは、ここで夜市が長年親しまれているからなのかもしれません。

夜市でドリアンを売る屋台

串焼きやマーラータン、果物を使ってその場で作る絞りたてジュースなど、実にいろんな店が並んでいました。このガヤガヤした感じ、台湾で行った夜市を思い出します(^^)。福建省は台湾の対岸ですから、文化が似ているのかもしれません。

北京の場合、王府井などに並ぶ「観光屋台」を除いて屋台は基本的にみられなくなりました。私が留学していた頃はあったんですけどね。大学近くでは夜になると屋台が並び、燕京ビールを飲みながら羊肉の串焼きをよく食べました。友人たちとよく行きましたし、1人でもよく行きましたねえ。その後、衛生面が良くないとか首都の景観を悪くするとか、いろいろ言われて姿を消しました。

福清市の夜市は何だか古き良き中国を見たようで懐かしい気分になりました。ただ小霞曰く「若い人しか行かない」そうで、本人はあまり屋台では食べないんだそうです。

小霞のご両親は福清市にビルをお持ちでした。このビル、小霞のご両親が日本で頑張って稼いだお金で建てたんですよね。上層階は自宅として使い、その他のフロアは貸し出しているとのこと。自宅部分にはご両親に加えて親戚たちが住んでいて、小霞たちが一時帰国したときに寝泊まりできるようたくさんの部屋がありました。全室にトイレと洗面所が備わった豪華仕様です。ビルの1階にはお菓子や飲み物を売る商店が入っていて、ここの店員さんとは顔見知りのようでした。

福建省滞在2日目には小霞の親戚の方が車を運転し、福州市内に連れて行ってくれました。運転してくれたのは女性の方で、最初は「小霞の友人かしら」と思ったのですが、聞くと小霞のいとこのお連れ合いの方とのこと。日本人からすると少し遠縁に感じますが、親戚づきあいが濃い中国では珍しいことではありません。

福清市から福州市の中心部までは車で1時間強だったでしょうか。福州市は福建省の省都*1なだけあって、とても発展していました。街の至る所にガジュマルの木があるのが印象的でした。ガジュマルの木は中国語で“榕树”と言いますが、福州市は“榕城”という別名もあるんだそうです。

福州市内の一角にあるガジュマルの木

福州市では福建料理の店で昼食をいただきました。私は恥ずかしながら福建料理と聞いてもパッと思い浮かばないのですが、中国では八大料理に数えられているんだそうです。

私が知る数少ない福建料理のひとつ、焼きビーフンです。福建省発祥の料理で、ビーフンという言葉も福建省の方言に由来します。こちらのビーフンには海鮮がたくさん入っていて(海に面する福建省は海鮮を使った料理が多いのも特徴です)プリプリのエビや歯ごたえのあるイカなど、海鮮好きな私としては大変食べ応えがありました。

こちらの料理は“荔枝肉”、日本語に直訳すると「ライチ肉」です。料理名だけ見ると「ライチを使った料理かしら」と思ってしまいますが、実際には一切使われていないそうです。メインの素材の豚肉を形状も風味もライチに似せた料理……といった感じでしょうか。食べてみると確かに甘酸っぱくてライチを彷彿とさせます。日本人には「福建風酢豚」と説明したほうが分かりやすいかもしれません。ライチの生産地・福州では清の時代から伝わる代表的な料理です。

ほかにもいくつか料理を注文しましたが、福建料理、特に福州は甘味が特徴のようで、どれも甘い味付けでした。写真奥のスープは“酸辣汤”(サンラータン)ですが、これさえも甘い!北京でいただくのとずいぶん違う味がしました。

ちなみにこのとき食べたものではありませんが、私が今回の福建省滞在中にいただいた料理の中で一番おいしいと思ったのは“海鲜焖面”(海鮮燜麺)です。写真を撮らなかったのが悔やまれます。下の写真はWikipediaから引用したものです。

Haixian menmian.jpg
Hhaithait – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

海鮮の具材が入った麺料理で、福建省の中でも小霞の地元・福清市で食べられる料理です。なにがおいしいって、このスープがたまりません。牡蠣を始めとする海鮮の出汁がよくきいていて、とろとろ煮込まれたような濃厚さがあります。これを食べて思い出すのが、長崎ちゃんぽん。明らかに同じDNAが入っているのを感じます。

で、いざ調べてみると果たして長崎ちゃんぽんのルーツと言われているそうです。いやあ、中国で食べた麺料理では一番感動したかもしれません。私は蘭州牛肉麺好きですが、もしかしたらそれを上回っちゃうかも。それほど自分の好みにドンピシャな味でした。

福建省の滞在中、とにかく食事面ではずいぶん歓待してもらいました。特に滞在2日目の夜にはホテルのレストランの1室を貸し切り、小霞の親戚たち(厳密には旦那さん側の親戚だそうですが)が一堂に会して宴会を開いてくれました。総勢20人近くが集まり、テーブルには置ききれないほどの料理が並びました。

中国は伝統的に大家族主義の国で、親戚づきあいが盛んです。親戚関係を表す呼称も豊富で、例えば「いとこ」も中国語では父方か母方か、自分より年上か年下か、男か女かによって呼び方が全て違います。だもんで、いざ紹介されてもパッと分からないのが正直なところ(^^;)。

あと、もうひとつ私が困ったのは方言です。小霞の地元では「福清話」という方言が話されていて、親戚たちが集まるとたちまち会話が方言になります。私が使っているのは共通語(北京語)で、小霞たちが使う方言との間には外国語くらいの違いがあります。なので方言で話されてしまうと私はチンプンカンプン。もちろん皆さんは共通語も話すので、私と乾杯をするときは共通語で“同学干杯”(同級生君、乾杯)なんて言ってくれました。ただ、小霞の子どもたちの世代になると方言は使っていなかったかな。ただ聞き取りはできるようで、親戚のおじさんおばさんが方言で話しかけたら、それに共通語で返す――みたいな感じでした。

References
*1省の政府が所在する場所のことで、日本でいうところの「県庁所在地」です。

私と中国語の話

私は中学生の頃に中国語を学び始めました。

岡山生まれ岡山育ちですが、中学時代は父親の仕事の関係で東京に住んでいました。国際都市・東京だけあって通っていた学校には韓国国籍の子、日本とフィリピンのハーフの子、黒人の子など、海外にルーツを持つ同級生がたくさんいました。

そんな中に中国人の子がいました。彼女は福建省出身で、鍾小霞という名前でした。入学当初の彼女は日本語が全く話せず、誰ともコミュニケーションが取れませんでした。授業は聴き取れないので肘を突いて窓の外をボーッと眺めているだけ。休み時間になっても会話する相手がいないので孤独に1人座っていた姿を覚えています。

このままではいけないということで、ある日、学校が通訳を手配しました。中年の中国人女性で、ホームルームの際には担任の先生が話す日本語をひたすら中国語に通訳していました。で、そのときの小霞が「うんうん」と頷きながら中国語を聞く姿が印象的でした。だって小霞はそれまで何も分からない「無」の世界にいたのに、通訳によって意思疎通できるようになったのです。当たり前ですが、私はそのことに衝撃を覚えました。

小霞はその通訳の方と日本語を学び始めました。当時、私たちの教室の隣には空き教室があり、そこで机を合わせて1対1で学んでいた姿を思い出します。小霞はみるみる日本語を覚え、半年も経つと簡単な内容なら日本語でやり取りできるようになりました。

そんな小霞の姿に刺激を受け、私は中国語を学んでみたいと思うようになりました。小遣いを貯め、1冊の学習本と1冊の辞書を買いました。それが2002年11月のことです。これで中国語が話せるようになるかしら――なんてワクワクしながら表紙をめくった気持ちは一生忘れないと思います。

それからというもの、小霞に対して中国語が通じるかどうか実践するのが私の日課となりました。ただ、肝心な小霞は私に対して中国語をあまり使おうとしてくれませんでした。日本語を学んでいるんだから日本語を使いたい!とか、確かそんな理由だったと思います。

小霞の日本語の上達スピードに比べて私の進歩は「後塵を拝する」といった感じでしたが、中国語を学ぶのは本当に楽しかったです。中国語を使って働けたらどんなに素敵だろう、将来は中国語の通訳者になってかつての小霞のように意思疎通に困っている人たちを助けてあげたいと思うようになったのもこの頃でした。

小霞には親友とも呼べる日本人の友人もできました。私たち3人は本当に仲が良かったです。放課後には遅くまでおしゃべりをしたし、週末にはよく一緒に遊びに出かけました。

けれど、数か月後に卒業を控えた中学3年生の12月、小霞は突然帰国しなければならなくなりました。ビザに問題が生じたのが原因で、それが判明した1週間後には出国するというくらい急な話でした。私はてっきり一緒に卒業できる、なんなら卒業後も仲良く交流し続けられると思っていたので、大変うろたえました。とても寂しくて、不意に涙が出てしまうほどでした。本当に寂しかったです。

帰国の前日、仲の良かった友人同士で小霞のお気に入りだった街・渋谷へ遊びに行きました。

小霞と行った最後の渋谷(2004年12月撮影)

渋谷公園通りにあるディズニーストアに行って小霞の中国の友人へお土産を買い、ケンタッキーフライドチキンで夕食をとりました。フライドチキンを食べながら「明日、何時に家を出るの?」と聞くと、小霞は「午前6時」と教えてくれました。そこで、その場にいた友人同士で顔を見合わせ、みんなで小霞の出発を見送ろうということで満場一致しました。

翌朝、私たちはまだ日も昇らないうちに小霞の自宅に向かいました。

見送りに行った朝(2004年12月撮影)

小霞は聞いていた午前6時になっても出てきません。15分経っても、やはり出てきません。小霞の父親は自宅近くでマッサージ店を経営していたので、そちらに見に行ってみました。店舗の入口はガラス戸になっていて店内が見えるのですが、無人で真っ暗でした。ケータイで店の電話番号にかけると、店内の固定電話がひたすら鳴るのが見えました。電話を取る人はいません。

結局、小霞には会えませんでした。おそらくですが、午前6時より早く出発したのでしょう。理由は分かりません。帰国の理由が理由だったので、本当は人知れずこっそり出国したかったのかもしれません。いずれにせよ、私と小霞はそれきりです。そして小霞は私の中で思い出の人となりました。

私は中学校を卒業し、地元の岡山に戻りました。高校に入学した後も私は中国語を学び続けました。高校1年生のときには初めて中国(上海)を訪れました。岡山の地元企業が企画した日中の高校生交流プロジェクトに参加し、上海の高校を訪れ現地の学生たちと交流したのです。私にとって、初めて小霞以外に知り合った中国の友人でした。また、高校2年生のときには中国語スピーチコンテストに参加しました。スピーチのテーマは小霞との思い出。手前味噌ですが最優秀賞をいただきました。この賞は私だけのものではなく、小霞と一緒に受賞したのだと今でも思っています。このときにもらった賞金を使い、高校3年生になる直前の春休みには母、祖母と中国旅行に行きました。人生で2回目の中国、その目的地は将来自分が働くことになる北京でした。

爾来、私は中国語への思いをより強くし、中国語の研究ができる大学に進学しました。そして在学中に1年間、北京に留学しました。留学中も私は小霞のことを忘れたことは一度たりともありません。なんなら「福建省に行ったら会えるだろうか」と考えたこともあります。けれど実現しませんでした。なんせ当時の私には何の手がかりもなかったのです。

大学卒業後、私は今の仕事に就職しました。初めての勤務地は香川県・高松市。仕事でたまーに中国語を使うこともあり、それがとても嬉しかったです。

香川県での勤務も5年が経った2018年のある日、ふとスマートフォンの通知音が鳴りました。それも連続して何度も、です。見てみると鳴っていたのはFacebookのメッセンジャーで、「一体誰がこんなにたくさん送ってくるんだろう」と確認してみると、何と小霞からのメッセージでした。

私は思いがけない小霞との(オンラインではありますが)再会に驚き、嬉しく、また「本当にあの小霞なのか」という信じられない思いでいっぱいでした。私は中国語で“哇!真的是你吗!?”(ワア!本当に君なの!?)とメッセージを送りました。これに対し、小霞は“你中文还是那么好”(中国語が相変わらず上手ね)と返してくれました。20年ぶりの小霞とのやり取りです。

聞くと小霞は福建省にはおらず、なんと出稼ぎで南太平洋の島国「トンガ」に住んでいるとのこと。3人の子のママで、旦那さんとトンガで商店を営んでいるんだそうです。小霞の出身地、福建省は確かに昔から海外に出稼ぎに出る人が多い地域です。小霞が幼い頃に日本に住んでいたのも、両親が出稼ぎに来ていたからでした。しかし、またトンガに出稼ぎとは──儲けられるのか?なんて思ってしまいますが、すでに6年になる*1と教えてくれました。

私に連絡をくれたのは、小霞がある日、同じく出稼ぎに来ている中国の友人と中学時代の話になったのがきっかけでした。小霞が「当時の友人と連絡を取りたいけど連絡先が分からない」と言うと、友人は「日本人はよくFacebookを使っているから、名前を検索したら見つかるんじゃないか」とアドバイスをくれたそうです。小霞はすぐさまFacebookをインストールして名前を検索したところ、私のアカウントを見つけた――そういう経緯でした。

久しぶりに連絡をとった小霞はすでに日本語を忘れていました。けれどやり取りは全く問題ありません――なぜなら私が中国語を話せるようになったからです。小霞が日本を発つ日の朝に見送りに行ったのに会えなかったこと、その後も私は中国語を学び続けて北京に留学したこと、今は中国と関係のある仕事に就いていること、とにかく話したいことが山ほどありました。こうして私たちは再び、連絡を取り合えるようになったのです。

その年の夏、私は東京に異動しました。新しい職場は中国に関する部署で、いよいよ中国語を使って仕事をするようになりました。そして2022年、私は北京に赴任します。小霞は相変わらずトンガに住んでいましたが、1年に1度は中国に帰国していました。中国で働く機会を得た今こそ、小霞に会えるチャンスではないか――ただ会えると思えば思うほど会えないもので、小霞の帰国の時期と私の仕事のタイミングが全く合いませんでした。何度か会えそうなチャンスはありましたが、結局会えないままズルズルと今に至ります。2025年、北京生活も3年目に入ると「このまま小霞に会えず帰国するのかな」と思うことが増えてきました。私が帰国してしまうと、わざわざ日本から小霞の一時帰国に合わせて中国に行くのはいよいよ難しくなると思います。

今、私は福建省に向かう飛行機に乗っています。小霞が7月上旬に一時帰国することになり、運良く私も夏休みをもらえて再会を果たせることになったのです。オンラインでやり取りをするようになって7年──互いの近況は知らせ合う仲になっていましたが、実際に再会するのは実に20年ぶりです。なんたって最後に小霞の顔を見たのは一緒に行ったあの渋谷のケンタッキーフライドチキンですから。

今の小霞は日本語を忘れ、中国語しか話せなくなっています。そういう意味では、中学校に入学した当初の小霞に戻ったと言えるかもしれません。けれど当時と違うのは、私が中国語を話せる点です。周りの人たちと何のやり取りもできず、寂しそうな顔をしていた小霞。あんなことにはりもうなりません。あなたをきっかけに学び始めた中国語は、これくらい話せるようになったんだよ──いつか小霞の前で披露したいと思ってきました。中学時代のあんなことこんなこと、卒業してからのあんなことこんなこと。中国語でいろんな思い出を語り合いたいと思います。

References
*12018年当時で「6年になる」ですから、今では小霞がトンガに行って13年が経つことになります。
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