日曜日ということで日中はゆっくり過ごし、夕方から仕事。
今日の北京は空気が悪く、夕日は霞んで目視できるくらいだった。
自室で仕事をしていると東京から「急かすわけではないのですが、何時くらいにできあがりそうですか」と連絡。急かすわけではないって、それは催促ってことじゃないんですかね。予定より相当早めの時間を提示し、連絡から1時間後には完成させた。
でもさあ、これだけ前倒ししたのに、あんまり感謝されていないような……ええ、そうですとも。絵に描いたような幸せなんて、爪の先ほども望んでませんって。
The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.
私が留学していた2010年に比べて北京の空気は相当改善したと思う。
当時はメディアで盛んにPM2.5の害について報道され、実際私も北京に住んでいて大気が悪いのが目に見えて分かった。100メートル先が見えないほどスモッグが深刻で、大学近くを散歩していたら化学物質のような、いかにも体に悪そうな「におい」が漂っていたのも覚えている。
近年では大気汚染に関する報道はめっきり減った。実際、中国の大気汚染は数値の上では大幅に改善している。おそらく原因は工場や自動車の排ガスだったのだろうけど、街なかを見るとトラックやらバスやら、どれも電気自動車。その普及率は日本以上ではないかと思うほどで、これが大気の改善に貢献しているのは間違いないと思う。これも中国政府の(ある種、強硬的な)対策の成果だろうなあ。むしろ気候変動対策では世界をリードする姿勢すら見せているし。
いや、今日書きたかったのはそういうことではなく。それでも北京ではたまーに空気の悪いことがあって、今日なんかはまさに「そんな日」だった。
そして、こういう日は「におい」もまた悪い。空気中になんとも言えないにおいが漂っている。けど、留学当時によくかいだにおいだ。うーん、くさいんだけど、懐かしい。
においというのは不思議。記憶の引き出しの奥~にしまわれ、十数年思い出したこともなかったことがありありと蘇ってくる。北京留学の記憶がありありと思い出されて、タイムスリップしたような気分になった。
気温も高くなってきて、外を歩いていても春を感じられて気持ちが良い。
仕事帰りに買い物をしようと朝陽門にあるショッピングモール「ユータウン」(“悠唐购物中心”)まで歩く。モールは華金だけあって、多くの人で賑わっていた。無印良品でいつも使っている化粧水などを購入。日本で当たり前に買っていたものが中国でも簡単に手に入るとは、ありがたい時代。「当時と同じにおい」をかいでいると、変化をより強く実感する。
東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から今日で12年。干支でいえば、丸々1周した計算になる。
12年前のあの日に何が起きたかはメディアが朝からずっと取り上げてくれているので、私は自分自身がどう過ごしていたかを振り返ってみたいと思う。
2011年3月11日、私は今と同じように中国・北京にいた。確か、金曜日だった。授業が午前中で終わる日で、地震発生の瞬間、私は留学生宿舎で過ごしていた。当時、私は毎週土曜日に日本語学校で日本語を教えるお手伝いをしていたため、確かその教材を作っていたのを覚えている。
教材作りをする手を止め、ツイッターを眺めているとNHKの公式アカウントが「緊急地震速報です」とつぶやいた*1。それが午後2時46分、北京時間午後1時46分だった。揺れが大きいことはすぐに分かった。フォロワーたちのツイートが続いたからだ。「やばい」「大きい」……けれど、私の記憶では、あのころ日本では地震が相次いでいたこともあり、大したことだとは思わなかった。そして私は昼食後だったこともあり、ウトウトして昼寝してしまった。
大変なことだと気付いたのは目を覚ましてから。ツイッターのタイムラインが大騒ぎしていたのだ。ふと「もしや」と思い、部屋のテレビを付けてみた。すると中国国営の中国中央テレビがNHKの放送波をそのまま流していた。それが、まさに津波が田畑をのみ込んでいくヘリコプターから撮影された映像だった。
私は恐ろしくなってルームメートのカナダ人を呼んだ。彼はテレビを見ると、絶句して「ツナミ?」とだけ発したのを覚えている。そう、英語でも津波は「ツナミ」なのだ。
東京にいる弟や友人の安否はツイッターで知ることができた。そして西日本在住とはいえ、両親のことが心配になって電話をした。電話に出た母親が「日本は大変なことになっているよ」と話したのが印象に残っている。
もう1人、連絡した人がいる。ランゲージパートナーだった中国人の学生だ。留学していた大学の日本語学科に通う女子学生で、日本語と中国語を教え合う仲だった。ちょうど地震の1週間前に日本留学をスタートさせたばかりだった。日本に行く前、彼女は「地震が起きたら怖いなあ」と話していたが、まさか到着早々こんな事態に巻き込まれるとは。メールをすると「私は大丈夫よ、ありがとう」とすぐに返事が来た。彼女の留学先は東京だったが、大阪にいる友人を訪ねて避難するらしかった。理由は福島第一原子力発電所の事故の影響を恐れて、だ。
もうひとつよく覚えているのは、有志の日本人留学生で募金活動をしたことだ。日本だと募金箱に数十円を入れて……程度かも知れないが、意外と100元札*2をポイッと入れてくれる人もいて、ありがたいなあと思った。
実は原発事故をめぐっては中国でもひと騒動あった。塩の買い占め騒動が起きたのだ。確かヨウ素入りの塩は放射性物質の沈着を防ぐ効果があるとか、そんなウワサが出回り、スーパーからは塩が消え、在庫のある店舗には客が殺到する騒ぎになった。
しかし、そんな騒動も当時を日本で過ごした人たちの苦労を思えば何てことない。ツイッターを見ているだけでも、その苦労は伝わってきた。例えば計画停電。証明が間引きされたり、夜でも電気が付かなかったり。私は北京にいたので何一つ困ることはなかった。当時の日本の合言葉は「がんばろう日本、がんばろう東北」。このフレーズを聞く度に、私は母国が大変なことになっているのに、その苦労を分かち合えていないような、後ろめたい思いになった。
いざ、思い出してみると、12年間開けられることのなかった引き出しの記憶がたくさんよみがえってくる。私は私で外の世界から日本をどう見つめたか、せめてその思いを忘れないようにしよう。そして今日の午後2時46分には私も黙祷をしようと思う。
今日は午後から出社。インフルエンザからの復帰後、初の外出だ。
会社に出てから同僚たちにお礼と謝罪を。だって私が休んでいた間の「仕事のしわ寄せ」が行ったんだもの。私がインフルエンザだと診断される前日に「きっとインフルエンザだ」と見事予言していたドライバーさんにも「あなたの言っていたことが正しかったよ」と伝えると、ケラケラ笑っていた。それよりあなたは大丈夫だった?と聞くと、自分の胸をドシンと叩いて見せてくれた。50過ぎだというのにたくましいなあ。見習わねば。
しかし今日は窓の外を見ると、病み上がりの身が「再度悪化」するんじゃないかと言わんばかりの天気。これぞ北京の風物詩、黄砂だ。まだ手前が見えるからましなほうだろう。私が留学していた頃には、家に帰って髪を洗うと茶色の水が流れたこともあったなあ。
この時期は窓を開けていると気持ちが良いけど、これじゃあとても開けていられない。家の中が砂だらけになること請け合いだ。何事も一筋縄には行かないね。
インフルエンザへの罹患が判明した日から4日目。1滴も酒を飲んでいない。
今回、服用している薬の中にはタミフルも含まれている。病院で処方される際、医師から「タミフルの服用後、10代の若い人を中心にまれに異常行動を起こすことが確認されています。それを踏まえた上で処方を希望するかはあなたの判断です。どうしますか」なんて聞かれ方をした。まあ、私はもう10代ではないし……ということで迷わず処方してもらったけど、ああいう聞かれた方をすると、ちょっと身構えてしまう。
タミフルでなくても薬を服用している期間中に飲酒はよくないし、そもそも罹患して1日目、2日目はしんどくて「酒を飲みたい気分」にもならなかった。それが回復してくると、やはり酒が恋しくなる。晩酌が大好きな私にとって、酒がない夕食というのは何かこう、福神漬けのないカレーというか、ネギのない蕎麦というか……どこか寂しい気がしてしまう。
もうひとつ、意外な発見があった。酒を飲まない夜は「短い」のだ。以前は酒を飲まない夜は長いと思っていた。酔わないと時間を有効に使うことが出来るからだ。けれど今回は食事後に眠くなってしまう。おそらく服用している薬の1つが「眠くなる」副作用があるからかもしれない。しかし食事後に歯を磨いていると、もうこのまま眠ってしまいたいほどウトウトしてくるのだ。これなら酒を飲んで妻とゲラゲラ笑っていたときのほうが夜が長かったように思う。とにかく「味気ない夜」だ。
とりあえず、処方された薬は明日が最後。仕事も午後からは出勤する予定なので、生活もやっと元通りだ。仕事から帰って「プシュッ」のビールを早く飲みたいなあ。
自宅近くにショッピングモールがあって、その中に「奈雪の茶」という店がある。中国各地で展開しているお茶ドリンク専門のチェーン店で、いつも若い客で賑わっている。
この「奈雪の茶」、そのネーミングといい、「NAYUKI」とローマ字まで振っているので日本のチェーン店かと思いきや、歴とした中国のチェーン店。店名にひらがなの「の」を使っていることもあり、日本発のチェーン店だと思い込んでいた(思い込んでいる)中国の人たちは多いと思う。
それが、今日ショッピングモールで「奈雪の茶」の前を通りかかると看板が変わっていることに気付いた。「日本的要素」がすべて取っ払われていたのだ。
今までひらがなの「の」が使われていた部分は「的」に置き換えられ、「NAYUKI」とローマ字が振られていた部分は「NAIXUE」という中国語の発音表記に。
こうした「日本的要素」を取っ払う動きは他でも去年頃から相次いでいる。そのひとつが「ユニクロ」、「ダイソー」、そして「無印良品」のいいとこ取りをして大成功を収めた「メイソウ」。
初期はこんなふうにカタカナで「メイソウ」*1、それに日本漢字で「名創優品」と書いた看板を掲げ、悪い言い方をすると「日本ブランド」を騙っていた。それが去年ぐらいから中国のSNSで「日本風」であることに批判が相次ぎ、「もう日本風はしません」と謝罪・表明する事態に追い込まれたというわけ。
私が北京に赴任してから見かける店舗からは「メイソウ」というカタカナ表記は取っ払われているし、今まで日本漢字で「名創優品」だったのも、中国の漢字(簡体字)で“名创优品”と書かれるようになっている。つまり「日本的要素」を取っ払った結果がこれなのだろう。
おそらく「奈雪の茶」から「日本的要素」が取っ払われたのも同じ理由なんだと思う。でもねえ……ここまで散々「日本風」に媚びて儲けてきたのに、この開き直り。真似るなら真似るなりのプライドというか、ご本家に対する敬意みたいなものが全くないんだなあ。
他にも「ファーウェイ」。この販売店のインテリアから、ひとつひとつの商品(例えばスマートウォッチの「HUAWEI WATCH」やワイヤレスイヤホンの「HUAWEI FreeBuds」)、そして新商品の発表会のスタイルまで、はっきり言ってすべて「Appleの真似っこ」。
いや、とはいえ世に数多あるAndroidのスマートフォンだって「iPhoneの真似っこ」から始まったものだし、そもそも世の中に全くのゼロから創造されるものなんてほとんどないのは分かっている。ただ……ちょっとでも「疚しい」と思っているならまだしも、この人たちは全く思っていないんだろうなあと(笑)。ここまで模倣し倒していると、いっそ清々しく思えてくるくらい。
確かに中国は発展したけれど、こういうところを見るにつけ「果たしてプライドがあるんだか、ないんだか、この人たちは」という気分になってしまう。ただひとつ思うのは、ご本家・模倣元に敬意の払えない社会ではイノベーションというものは起きないんじゃないかと……感じるところです、はい。
*1 | そもそも本当に日本ブランドなら「迷走」と連想しかねない「メイソウ」なんて名前を店舗名にはしないと思うけど(^^;)。 |
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最近、朝が全く寒くない。一時は最高気温でさえも氷点下だったけど、今日の最高気温は19度だった。土のにおい?っていうのか、春の香りを感じて「季節が変わったんだなあ」と実感する。
この時期になると毎年思い出す「感覚」がある。ものみな芽吹こうとして、うずうず・そわそわしている感覚だ。仕事においても生活においても春は新しいことを始める時期で、期待と不安が入り交じった何とも不安定な心持ちになる。むずむずするというか……別に花粉症じゃないんだけど。
作曲家の武満徹さんだったかなぁ、彼が生前にこんなことを言っていた。
「春は嫌いだ。どこか疼くような感じがして」。
ううむ、何だか分かるなあ。いや、嫌いとまではいかないけど「疼く」って感じ。だったら「ガガン」と暑い夏の日とか、「ドドン」と寒い冬の日のほうが好きですね。
今日、昼に会社近くのセブンイレブンに行くと久しぶりに会う店員がいた。
このおばちゃん店員とは北京に来てすぐの頃によくやりとりをしていた。私がしょっちゅうコーヒーを買うので、たまに買わない日があると「今日はコーヒー買わないの?」なんて聞いてくれた。
仕事ぶりもテキパキしていて、見ていて気持ちが良い。いつも会うのをひそかに楽しみにしていたが、ここ数か月ほど姿を見なくなっていたのだ。
今日、久しぶりの姿を見たので「長らく姿をお見かけしませんでしたね」と声をかけると「実家に帰っていたのよ」と言う。聞くと、実家には80代の高齢の母親がいるそうで、数年間帰省できない時期が続いていたらしい。このたび「ゼロコロナ」政策が終わってようやく感染対策が緩和されたため久しぶりに帰省したそうだ。「お母様はお変わりなかったですか」と聞くと「何てことないわよ」と話していた。
日本でコンビニの店員に気軽に話しかけるなんてあまりしないが、中国ではこういうことがままある。それもおじさんとかおばさんとか一定年齢以上の方とは特に。私はこういうのが本当に好きだ。
あとは道を尋ねられることも多い。なぜだろう、私が話しかけやすい顔をしているのだろうか。今日も午後11時前の遅い仕事帰り、自宅前で出前配達の若いお兄ちゃんに話しかけられた。こういうときは往々にして外国人と思われていないらしく「この配達先の住所って、このマンションのことでいいんですかね」と聞かれたので「はい、あのエレベーターに乗ればフロントまで行けますよ」などとお教えした。「助かりました」と笑顔で答えてくれると、こちらも気持ちが良い。
こういう「見知らぬ同士が気軽に声を掛け合う」って東京で暮らしているとかなりの勇気が必要だけど、異国ではなぜか簡単にできちゃう。そういうのもまた外国暮らしの楽しみかもしれない。
夜に仕事関係で日本人のお偉い方と食事。
ここ最近、基本的に仕事で付き合いがあるのは中国の人ばかりだったので、日本の人と会うと雰囲気がえらく違う。場所もちょっぴり雰囲気の良い和食料理店だったので、それがまた一層堅苦しくさせる。こういうやんごとなき方々もお酒が入ってくると打ち解けてくるものだが、今日の方は全くお酒を飲まない方で終始お堅い感じ。
テーブルにはおいしそうな料理がたくさん並んでいたけど、ガツガツ……という雰囲気でもなく、ああ、もったいなかったなあ。いや、仕事なんだけどね。言葉遣いも気にし出すと日本語って本当に難しい。中国人とやり取りしているほうがよっぽど楽だなあと感じた*1。
*1 | もちろん中国語にも敬語表現はあるし、中国人が対人関係に敬意を払わないわけではないけれど。 |
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今日、出勤していると目の前に「歩きタバコ」をしている男性が。気持ち良さそうに吸っているけど、その煙はすべて私のほうに流れてくる。嫌で左右にずれてみるも、なぜか煙は移動した私のほうに流れてきて「……んああ!もうっ!」という気分になる。
日本ではほとんどの自治体が条例で路上喫煙を禁止しているし、屋内に至っては「ほぼ」吸えないような状況。受動喫煙の害が指摘されるようになって久しいし、歩きタバコは「タバコを持つ手の高さが子どもの顔の位置にあたる」なんて、やけどの危険性についてもよく言われた。こういう意識が広まってもう20年近くは経つんじゃないかなあ。街なかで堂々とタバコを吸う人はほぼ見なくなり、喫煙者の方々にちょっぴり同情する気持ちはあるものの、私個人は概ね歓迎している。
しかし、中国はタバコに関する「意識」が30年ほど後れているような気がする。タバコを吸わない私としては勘弁してほしいというか、正直不快だ。いや、私は基本的に中国で不快な思いをすることがあっても“入乡随俗”*1だと受け入れるようにしている。往々にして文化の違いに起因することが多いからだ。しかしタバコに関しては日本を始め、諸外国で数え切れないほどの否定的なエビデンスが出揃っているというのに、2023年の今になっても吸い続けることの愚かさというか教養のなさに呆れるというか(ごめんなさい)。まあ私だってタバコは吸わないもののいろいろと悪癖はあるからエラソなことは言えないけど。
フォローするわけではないが、こちらの国でタバコは重要なコミュニケーションツールだ。自分がタバコを吸いたいときは、必ず一緒にいる人にタバコを勧めるのがマナー。お互いタバコを吸いながらおしゃべりに興じるのが中国流なのだ。私もタバコを勧められた経験が何度もある。そのたびに「吸わないんですよ」と断り、ばつが悪かったことが何度もある。それだけに中国でタバコをめぐる習慣を変えるのはそう簡単ではないと思う。
日本だってつい数十年前まで公共交通機関でほとんど吸い放題だった時代があったよし。個人の努力で事が運ぶとも考えにくく、国が率先して対策に取り組む必要があるんだろうなあ。
*1 | 郷に入っては郷に従え。 |
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