The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.

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中国発の大ヒットアニメ映画

ここ最近、中国では国産のアニメ映画の大ヒットぶりが連日報じられています。中国の神話を元にした“哪吒之魔童闹海”という作品です。2019年に公開された1作目に続く2作目で、日本人の間では主人公の名前から取って「ナタ2」と呼ばれています。

私の職場でも「見た」という中国人の同僚が結構いて、見ていない私のほうが「え、見ていないんですか」と意外な反応をされるくらいです。

これまで世界のアニメ映画の興行収入ランキングの1位だったピクサー映画「インサイド・ヘッド2」を超えて更新したとのこと。中国のテレビニュースでは「アジアで史上初めて1位を獲得した非ハリウッド制作映画」と大々的に報じていて、フィギュアやコレクションカードといった関連グッズは品薄状態なんだそうです。まるでお祭り騒ぎです。

けれど、何でしょうね。この「そそらない」感じは。見る気が全く起きません。すげーぞ、中国のアニメ!世界一!といった称賛ばかりが聞こえて来る、この流れが気持ち悪い。ともすれば興行収入の話ばかりで“老王卖瓜,自卖自夸*1が過ぎるのです。登場するキャラクターも明らかにディズニーを意識したデザイン。そのうち「日本アニメを超した」「ハリウッドを超した」と言い出すのかなあと思うと、なおさら見る気が失せます(^^;)。

結局は「中国人の、中国人による、中国人のための」アニメ映画なのです。日本をはじめとする中国以外の国では話題にもなっていません。興行収入の99%が国内の売り上げという事実がそれを如実に表していると思います。だのに「世界1位を更新した」って、比較に意味がないのです。

まあ、作品を見ていない私に作品を批判する権利はないでしょう。周りの中国人たちは「おもしろかった」という人がほとんどで、その感想は素直に受け入れます。けれど私が作品を見ることはないかなあ。はあ、すみません。

References
*1「ウリを売る王さんは、自分で売りながら自分のウリを褒める」、つまり自画自賛するという意味。

ターミネーター

先週、映画『アイ・アム・レジェンド』を見たというブログ記事の中でSFが素直に見られなくなったと書いたばかりなのに、今日は1984年公開のSF映画『ターミネーター』を見ました。と言うのが、有名な作品なのに見たことがなかったからです。

ターミネーター(アメリカ/1984年)

以下、映画のネタバレがあります。

やはり作品を見ていると展開が予想できてしまいます。この主人公、きっと女性と恋に落ちるよ!この主人公、このあと死んじゃうよ!そんなことをぶつぶつ口ずさんでしまうから、隣で見ている妻に「楽しくなくなっちゃうじゃない」と言われちゃうほど。ですがそれが全部当たるんです。

で、クライマックスまで見たところで気付きました。私、ターミネーター、見たことがあるわ(^^;)。展開が予想できるのも、見たことがあれば当然です。

むしろ映像のほうで忘れていることが多く、興味深かったです。例えば終盤でターミネーターが金属骨格むき出しのロボットになるシーンのストップモーション。ストップモーションというのは人形を1コマ1コマ少しずつ動かしながら撮影し、あたかも人形が自ら動いているように見せる撮影技術です。CG技術が進化した現代の映画では出番が少なくなりましたが、昔の映画ではよく使われているんですよね。キングコングとか有名ですし、あとティム・バートンの作品にもよく使われています。

こういう80年代のSF作品は未来を描いているのに、登場する技術が古かったり、未来から来たはずの登場人物が80年代っぽい感じを醸し出していたり、何だか「レトロフューチャー」感が滲み出ていて良いですね。私は好きです。

アイ・アム・レジェンド

金曜日の夜に映画『アイ・アム・レジェンド』を見ました。2007年公開のSF映画です。

アイ・アム・レジェンド(アメリカ/2007年)

見るのは初めてではありません。映画館だったか、テレビだったか、どこで見たのかは忘れましたけど。ストーリーは知っていたわけですが、何て言うか、悲しいことに年を取るとSF映画がピュアに見られなくなっちゃいますね。昔はもっとSF映画のワクワクを楽しんでいたような気がするのに。見ているとツッコミどころが満載なのです。

舞台はウイルス感染が拡大して人類がほとんど死滅してしまった世界。ウィル・スミスが演じる主人公は廃墟と化したニューヨークに暮らし、野生動物を狩ったり野菜を収穫したりして自給自足の生活をしています。

主人公は自宅に帰ると照明を付け、テレビを見て(放送ではなくビデオを見ているようです)、パソコンを使い、シャワーを使っています。世界から「ほとんど人がいなくなってしまった」にもかかわらず、です。これらのものは、コンセント、蛇口、ガス栓から自然に出てきません。送電設備やポンプといった機材が常に保守点検・維持管理され、発電所、浄水場といった施設に働く人がいてこそ、初めて提供されるわけです。すると(おそらく)ニューヨークで最後の生き残りである主人公のもとに誰がどうやって提供しているのでしょう。

また、廃墟化した街には放置された自動車の間を走り回る鹿のような野生動物*1の群れと、それを狩ろうとするライオンが登場します。この動物たちはウイルスに感染しないんでしょうか。ウイルスは犬には感染するようで、作中には凶暴化した犬が登場します。世界中の人類がほとんど死滅したのに、野生動物は大量に出てくるというのは何だか解せません。

別に理屈で見るタイプの映画ではないのです。もっと素直に楽しめばいいのに、ああ、なんで私は「設定のリアリティ」や「ストーリーのありえなさ」ばかりにフォーカスしちゃっているんでしょう。初めてこの映画を見たときはもっと素直に楽しんでいたはずです。

ちなみに、この映画の原作は1954年に出版されたアメリカの作家リチャード・マシスンによる『地球最後の男』(原題:I Am Legend)です。これを藤子・F・不二雄さんがオマージュした『吸血鬼』という短編漫画があります。世界の人類がウイルスに感染して激減する中、残った主人公が抵抗する……というストーリーは同じなのですが、結末は全く違うものになっています。ある行為も、別の立場から見ると全く違って見えるという“二元的観点”を取り入れていて、この作品は読み終えたときにハッと気付かされるといいますか、鳥肌が立つ思いでした。正直、こちらのほうがより深い読後感があったように思います。

References
*1調べてみると鹿ではなく「インパラ」というウシ科の動物なんだそうです。

通常運行の正月2日

正月2日、北京は通常運行です。朝の通勤ラッシュもいつも通りで、会社に着く頃には今が正月三が日であることを忘れていました。日本人の同僚が数名休みを取っているので、いつもより人が少ないオフィスを見て「ああ、今日は1月2日だった」と思い出す次第。

オフィスの同僚たちに「あけましておめでとうございます」とか“新年好*1と挨拶しますが、どこか小恥ずかしいのはなぜでしょう。正月の雰囲気が全然ないからかもしれません。だって昨日の元日1日会わなかっただけなんだもの(^^;)。

お昼を食べに職場近くのショッピングモールに行くと、名探偵コナンの映画の宣伝パネルが並んでいました。漢字を見たら映画タイトルが分かると思います、「名探偵コナン 迷宮の十字路」*2です。

この映画、ずいぶん前の作品ですよね。調べてみたら2003年……もう20年以上も前です。よく見たら宣伝看板に“4K画质 大银幕初见”(4K画質 大スクリーンで初お目見え)と書いてありました。つまり中国で正式に映画上映されるのは初めてだということですね。確かに20年前だと今より海賊版が幅を利かせていた頃です。

中国でも最近は知的財産権を保護しようという意識が高まり、海賊版や違法配信はだいぶ淘汰されました(完全になくなったとは言えないですけど)。人々の所得水準も上がり、昔見た作品をきちんとお金を払ってでも映画館で見たいという声が高まっているんだと思います。実際、中国では『天空の城ラピュタ』とか『紅の豚』といったジブリ作品のリバイバル上映が相次いでいます。日中関係をめぐってはいろいろありますけど、こうした文化交流はそんなのどこ吹く風なのかもしれません。

References
*1中国語で「あけましておめでとうございます」。
*2もっとも「十字路」で「クロスロード」と読むそうです。

渚のシンドバッド

タイトルはピンクレディーの有名な歌と同じですが、関連性はありません。どこかで予告編を目にして(どこで見たのか記憶にないのです、ツイッター……もといXかしら)いい雰囲気だなあ、見てみたいなあと思っていたらAmazonプライムビデオで公開されていることを知り、鑑賞しました。

【ネタバレがあります】

渚のシンドバッド(日本/1995年)

高校2年生の伊藤は、同級生で同じ吹奏楽部に所属する同性の吉田に思いを寄せながら、それを伝えられずにいる。一方、数か月前に転校してきた女子生徒、相原は少々変わり者で周囲から浮いていたが、なぜか伊藤と気が合って2人は親しくなっていく。そんな相原にはかつてレイプされるという悲しい過去があった。やがて伊藤はゲイだと噂を立てられてしまい、意を決して吉田へ自分の本心を語ろうとするが……

90年代ならではのノスタルジックな雰囲気が終始漂う作品。私は個人的に「エモい」という言葉があまり好きではありませんが*1、ああこういうのが「エモい」ということなんだなと教えてくれる映画です。

伊藤がクラスメートの吉田に特別な感情を抱いていることをいち早く察するのが相原。相原自身も前に通っていた高校でレイプされて心に傷を負っているからこそ、伊藤が「自分は他の人と違う」という、ある種の孤独を抱えながら生きていることを敏感に感じ取ります。伊藤も相原が自分に偏見を持たずに接していることを感じるので、2人の距離は縮まっていきます。

登場人物は私より上の世代ですが、作品で描かれる敏感で微妙な友人たちとの距離が自分も高校生のときに感じていた空気と映像に重なり、とてもリアルでした。自分にもこんな時代があったなあ、もう戻れないんだなあ……と思う反面、うーん、戻れたとしても戻らないかな?とも。思春期や青春時代ってどうにもならないけど、どうにかして生きていかなきゃいけないんですよね。

2時間の大作でしたが無駄なシーンがひとつもありませんでした。岡田義徳が特にすごいんですけど登場人物の演技があまりに自然なので、見ていてこちらが恥ずかしくなったり、思わず笑ったり、見ていられなくなったり……映画を見てこんなふうに感じることは滅多にありません。あと相原役は、何と浜崎あゆみなんですね。歌手としてデビューする前なんだそうですが、女優としても成功していたんじゃないかと感じる演技でした。

いろいろ印象に残った台詞はあるんですが、そのうちの一つが終盤で伊藤が言った「(自分の好きな人が)どんなふうに人を好きになるか見たかった」という言葉。あとエンディングの高梁和也さんの「うしろむきの私」も良いですね。作中に出てくる海の色が思い浮かびます。

References
*1「エモい」が言わんとすることは、私も何となく分かります。自分自身がかつて経てきた経験や記憶と重なって懐かしく、時に胸が締めつけられるような……ああ、このときにはもう帰れないんだ、みたいな感覚。私が何となく嫌なのは、そんな複雑な感覚を「エモい」というひと言で表すことへの抵抗かもしれません(笑)。
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