かつて留学していた大学を訪問した。
北京師範大学、地元では“北师大”(北師大)と呼ばれ、もともとは教員養成の大学。今は総合大学となり、文系から理系まで幅広い分野を扱っている。私がここに留学した理由は、単に当時通っていた日本の大学の交流協定校だったから。あとは「中国語を学ぶならやはり北京かな」という程度だったけど、今となっては初めての海外生活を過ごした場所なだけに特別な場所。
かつては外部の人間もキャンパス内に自由に出入りでき、夜には広場でおじさんおばさんが社交ダンスに興じる姿を見かけるなど、地域の人たちの憩いの場だった。それがコロナ禍をきっかけに学生をはじめ大学関係者しか入れなくなったようだ。在校生など関係者を頼って許可を取らなければ中に入れず、中国に赴任してから半年経つも一度も訪問していなかった。その後、会社の中国人スタッフを通じて在校生と知り合うことができ、訪問が叶うことになったというわけ。
北京師範大学の東門。案内してくれる学生とはここで待ち合わせ。
ちなみに私の留学生活もこの門から始まった。中国に到着した日、30キロ近い重さのスーツケースを抱えながらタクシーの運転手さんに“请到北师大东门去!”(北京師範大学の東門までお願いします)と告げ、最初に到着したのがここ。当時と何も変わらない佇まいだけど、変わったのは緑のテントが張られ、セキュリティーゲートを通らねばならなくなった点。前は開放されていたんだけれど。
実は大学自体は数年前に北京に出張した際に訪ねているので、そこまで懐かしい感じはしない。だから余計にセキュリティーゲートに違和感を感じる。これもコロナ禍で出入りを管理するようになってから設置されたらしい。
東門に並ぶ、この建物が留学生の宿舎。私が生活していたのもここ。家賃は高かったけど、その分、環境は大学内で一番だったんじゃないかな。毎日の掃除とベッドメイキング付き。部屋にもいくつか種類があり、私は共用スペースに個室2つが付く部屋で生活していた。ルームメイトは希望がなければ勝手に割り振られ、私の場合はカナダ人の学生だった。元気にしているかなあ。
宿舎もキャンパスの「内側」からでないと入れなくなっていた。
宿舎の1階にあった売店はまだ残っていた。外からのぞいただけだけど、たくさんのカップラーメンが並んでいた。留学生の宿舎なので、外国からの輸入品もよく並んでいた。
大学の中を歩いていると、当時交流のあった人たちを思い出す。この食堂はあの人とよく来たなあとか、このバーであの人とよく飲んだなあとか。月日が経ち、今やこの大学で学ぶ現役学生も私より一回り下になってしまったわけだ(^^;)。
北京師範大学のシンボルとも言える「主楼」。私が留学していた「文学院」のオフィスはこの中にあったので、よく訪れた場所だ。その手続きはあっち、この手続きはこっちと、「主楼」の中を何度もたらい回しになったのも今では良い思い出(^^)。
案内してくれた学生は「うちの大学で唯一の『現代的な建物』です」と笑いながら話していた。わはは、確かに北京師範大学は少々建築年数が経っている建物が多い。けど図書館や体育館だって立派じゃないの。
昼食はキャンパス内にある“西北餐厅”。私が留学していた頃からあったけど、リニューアルされて内装はずいぶん変わっていた。提供される料理はすべてハラールで、ウイグル料理や回族の料理を楽しむことができる。こういうレストランがきちんと用意されているところ、さすが多民族国家だなあ。日本はまだまだ遅れている。
“大盘鸡”をはじめ、ラム肉の串焼きや骨付きのラムステーキなど、いろいろいただいた。私のほうがよっぽど先輩なのに、案内してくれた学生に料金を支払わせてしまった。なんたる失態!その子のスマートフォンアプリで料理の注文をしたので、料金の支払いもそのままスマホ決済で済ませてしまったのだ。長幼の序を重んじる中国、学生に払わせちゃいけないよなあと反省。
お返しというわけではないけど、その後、キャンパス内にできたおしゃれなカフェでコーヒーをごちそうした。ふと私が留学していた頃の話になり「10年前の北京はどんな感じでしたか」と聞かれる。な、な、何ですか~その、おじいさんに歴史を尋ねるような聞き方は(^^;)。でも、そうかあ……私が留学していた当時はまだ10歳くらいだったんだもんなあ。
ちょっと心がくじけかけたけど、妻と並んで写真を撮ってもらったところ「お二人とも大学生のカップルみたいですよ」と言ってくれたので、それで相殺するとする。はいはい、分かっていますよ、お世辞なことくらい。