いつも行く蘭州牛肉麺の店で昼食を済まし、外に出ようとすると入口にワンコがいました。
いつも近くをウロウロしているワンコです。当初は野良犬?と思っていたのですが、それなりに体が大きいし、誰かが定期的に食事を与えているのかもしれません。春から秋にかけてはよく見かけましたが、ここ最近は北京も寒い日が続いているからか見かけませんでした。厳しい冬の間はどうしているのかなと思っていたら今日久しぶりの再会。
何か欲しそうな顔をして私を見て来ましたが、残念ながら何も持っていないよー。
The time is gone, the song is over, thought I'd something more to say.
先日、韓国で犬食を禁じる法案が国会で可決されたというニュースを目にしました。
犬食と言えば確かに韓国が有名です。とは言え、私は韓国に3回旅行しましたが犬食を食べる機会は一度もありませんでした。韓国でも犬食に反対する人が増えていたといいますから、実際に食べる人も減っていたのでしょう。法案の採決では反対する議員がゼロだったということが物語っていると思います(棄権は2人いたようです)。
私は小さい頃から犬のいる環境に育ちました。最初は「ハッチ」という名前のシェットランド・シープドッグ。私の母が結婚する際、自分の両親(私の祖父母)へ「寂しくなるだろう」と送ったそうです。私が生まれる前から祖父母宅で飼われていたハッチは、私にとって「いるのが当然」の存在でした。祖母はいつも誰よりもまず最初にハッチに食事を用意していました(ドッグフードではなく手作りです)。祖母に手を引かれてハッチの散歩にもよく行きました。散歩中にハッチが突然逃げ出し、私が走って追いかけてつかまえことも覚えています。
ハッチが死んだのは私が小学2年生のときでした。私が生まれて初めて「死」と向き合ったのも、このときだと思います。寒い冬の火曜日でした。ハッチが日に日に弱っていることは祖父母から聞いていました。祖母からハッチが死んだと連絡を受け、平日でしたが祖父母宅に駆けつけたのです。横たわったハッチの体をなでると冷たくて硬かったこと、今でも忘れません。
その後しばらく犬とは無縁の生活が続きましたが、私が高校生になった年にウェルシュ・コーギー・ペンブロークを飼い始めました。名前は「ゼロ」。もちろんハッチのことは大好きでしたが、自分の家で飼っていたゼロとの親密ぶりはそれ以上でした。
思い出すのはゼロのぬくもり。寒い冬に私の膝にちょこんと乗ってくるのですが、それが温かいのです。ゼロが生き物で人間と同じように「生きている」ことを感じました。私たちが兄弟げんかをしていると必ずゼロがギャンギャン鳴いて仲裁に入ってくるのも不思議でした。家族が争っているのを見るのが嫌だったのかな。あと私がゼロに顔を近づけてキスをしようとしたら(笑)怒って噛みつかれたこともありました。私の唇には当時の傷が残っています。今となってはゼロとの思い出です。
私がゼロと一緒の時間を過ごす上でラッキーだったのは、就職して最初の数年間を香川で過ごせたことです。香川から実家の岡山へは車で1時間半ほどで、しょっちゅう帰っていました。当時ゼロは晩年期に差し掛かっていましたが、そんな時に一緒にたくさん過ごせたのは幸せだったと思います。
ゼロが死んだのは私が香川から東京に異動した年、それも異動してまだ1か月半くらいのときでした。蛍光灯ばかりが照らす東京のオフィスで働いていると、突然父親から「ゼロはもってあと数日」という連絡をもらったのです。私はいてもたってもいられず、翌日の始発の新幹線に乗って岡山に飛んで帰りました。家に着くまでに母から何度も「もう間に合わないかもしれない」とLINEをもらいましたが、結果的に私が着くまでゼロは生きていました。弟も東京から帰ってきていました。ゼロはぜーぜー息を吐いて苦しそうでしたが、家族みんなが集まっているのを不思議に思ってか、体を起こして一人一人の顔を順番に見つめていたのを今でも忘れられません。家族みんなに撫でられながらゼロは息を引き取りました。
ゼロの死によるショックは相当なものでした。私がそうですから、両親にとっては如何ばかりかと思います。岡山市内の火葬場で荼毘に付して帰宅すると「ゼロのいなくなった家はこんなに静かだったのか」と感じたことを覚えています。
それから次の犬を迎えるまでに時間はかかりませんでした。ゼロが元気だった頃、みんな「次は別の犬種でもいいね」なんて話していましたが、ゼロがいなくなってぽっかり空いた穴を埋められるのはコーギーしかいませんでした。ゼロが虹の橋を渡ってから2か月後、トライカラー*1のコーギー「サリー」を迎えました。さらにその数年後にはゼロと同じレッドのコーギー「シュガー」も加わり、今は賑やかな日々を送っています。
犬をペットとして飼う行為は太古の昔から見られますが、時代によってその「命の重み」は違ったかもしれません。私の祖父はゼロを飼い始めた頃に「ワシが小さかった頃はお金を出して犬を飼うなんて信じられなかった」と言っていましたが(笑)今も「犬は犬、ただの動物」という人はいると思います。犬を家族同様に可愛がる人もいれば、犬を食す文化だってあるわけですから。
一方、今年に入って犬を始めとするペットの「命の重さ」を意識する出来事が相次ぎました。ひとつ目は1月2日に東京の羽田空港で日航機と海上保安庁の航空機が衝突した事故での話です。
日航はまた、事故機に搭乗した乗客からペットを貨物室で預かっていたが、救出できなかったことを明らかにした。日航によると、乗客からペット2件の預かりがあり、客室と同じ温度・湿度となるよう空調管理された貨物室で運んでいた。
乗員・乗客は全員脱出できたものの、残念ながら貨物室にいたペットは救出できなかったということです。旧ツイッター、Xでは「生きている命をモノとして扱うことが理解できない」とか「人間の避難が最優先でペットが後回しになるのはしようがない」などと様々な議論が起こりました。一方で今回の事故を受けて、こんなニュースも注目を集めました。
スターフライヤーは、コロナ禍の影響が続いていた去年3月、飼い主がペットと一緒に空の旅を楽しんでもらうことで利用客を増やそうと、客室に犬や猫を持ち込めるサービスを始めました。
厳密に言うとスターフライヤーの取り組み自体は日航機の事故前からあったものですが、今回の件をきっかけにペットの輸送に注目が集まったことで今後こうした動きはますます広がっていくのかな、という気がします。
命の重さを意識する出来事のふたつ目は1月1日に発生した能登半島地震です。私の個人的な印象かもしれませんが、今回の地震ではペットに関するニュースが多いように思います。
ざっと検索しただけでも、これらの記事が見つかりました。人間の避難はさることながら、こうしてペットの境遇も災害報道で取り上げられるところ、犬や猫などペットの「命の重さ」が変わってきているのかなと感じます。
話は戻って、冒頭に書いた韓国の「犬食文化」。私も犬は家族同様の存在だし、それを食べるだなんてあり得ない!……と思っているほうの人間ですが、経験として「一度くらい」は食べてみてもいいかなと思っていました。ですが韓国の犬食文化は私が食べるのを待たずに消えることとなりそうです。まあ、でも考えてみればペットとして幸せな暮らしを送る犬が増えるにつれて、犬食文化は消えゆく定めにあったとも言えるでしょう。これも「命の重さ」が変わったことによる出来事だったかと思います。
コアな犬肉ファンたちは寂しがるかもしれませんが、倫理観や法律などと同様、食文化も時代の変化によって変わるものだと割り切るしかないでしょうね。
*1 | コーギーの毛色には数種類あり、黒色の毛が混じるものを「トライカラー」と言います。一方でゼロのように明るい茶色(ベージュ)の毛色は「レッド」と言います。 |
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